小浜の管理

室町時代、小浜は日本海交易の要であった。その小浜を管理していたのは誰だったのか、を整理しておく。メモ帳代わり。
小浜は基本的には若狭国守護の支配下にある。鎌倉時代には基本的には得宗家もしくはその周辺が就任している。
1203〜1220年北条義時
1220〜1221年津久見忠季
1221〜1228年若狭忠時
1228以降は得宗家もしくはその周辺、例えば北条重時・時茂が1231〜1271年、北条宗方が1299〜1305年となっている他は得宗家。
室町時代南北朝時代は目まぐるしく変わるが、1366年以降は一色氏の世襲となる。
一色義貫が暗殺された後は、武田信栄が小浜の商人を処刑した、という記事が出るので、武田氏に移り、一色氏は義貫と対立した一色教親が後を継ぐが、教親死後に義貫の嫡男の義直が一色氏の家督を継承し、小浜の支配権も与えられる。これを差配したのが当時の管領である畠山持国であることはいうまでもない。義直は応仁の乱では西軍に属するが、これは畠山総州家(持国−義就)と一色氏との深い関係を考えれば蓋し当然であろう。
1455年には武田信賢が小浜の妙興寺に禁制を与えているので、持国失脚後は勝元の影響の下、小浜の支配権が再び武田氏に移ったのかも知れない。そういう中で勝元がそれまで畠山総州家に掌握されてきた日本海交易を奪取しようとして下国分家を北海道に遣わし、畠山総州家と関係の深い下国本家を牽制するために、若狭武田氏の一族を派遣させるのもありうるかも知れない。それが武田信広であるかもしれない、と妄想する日々。信賢の嫡男、という伝承では信広は若すぎる。