ウィキペディア、安東家政

そもそもこういうマイナーな記事をしっかり書いてくれていることに感謝しなければならない。しかも同じ筆者による記事を見てみたが、非常に良質の記事を生産していらっしゃる、という印象。
安東家政の項目安東家政 - Wikipediaについて。基本的には間違いがないのだが、最後の記述の「恒季殺害の同年1496年(明応5年)茂別館がアイヌ民族の襲撃を受け、家政は蠣崎義広に庇護を受けることとなり」の部分がいくら探しても出典が分からない。
そこで北海道立文書館所蔵の「松前下国氏大系図松前国下国氏系譜」をみてみた。茂別館の陥落については家政の孫の師季の項目に次のようにある。

師季
称安東八郎後称茂別下国式部。初居于東部茂別矢不来館、永禄五年壬戌夏六月夷賊起攻其館。師季敗続逃来松前薙髪更清観。其子式部〈見于下〉立不徳也。因師季遁避松前、住于西部世太奈伊、終卒于彼地。年月法諡無于古譜及其鬼籍

茂別矢不来館が陥落したのは永禄五年、つまり1562年のことになる。蠣崎氏がセタナイのハシタインを上ノ国に招き寄せ、シリウチのチコモタインとともに東西の「尹」にして「夷狄往還法度」を定めた十二年後である。「国内静謐」と言っているが、全く「静謐」ではなかったことになる。面白いのは、師季が子の重季と対立して最後はセタナイに隠遁していることと、そもそもシリウチよりも松前から離れた茂別矢不来館がまだ残っていたことだろうか。とすればハシタインとチコモタインと蠣崎季広の「講和」は一体何だったんだ?という疑問が湧いてくる。これについては「腹案(笑)」がある。
あとウィキの執筆者が間違えた原因としては、下国恒季の滅亡の話が家政の項目に書かれていることが考えられる。そこには注目すべきことが書かれている。「一説父山城定季者下国康季之子也。実否未詳」とある。