南部義政と下国盛季の霊界大合戦

嘉吉三年(一四四三年)、通説によると南部義政の攻撃によって下国盛季が十三湊から没落したという。
「南部家系図」を見てみた。

義政
初行政 庄司 大膳大夫 遠江守 母は信光が女。
永享十一年普広院義教、足利持氏を追伐のとき、大手口をやぶりしにより、感状及び諱の字をあたへられ義政と称す。このとき又黒母衣をゆるさる。十二年七月十二日卒す。旭山東公と号す。高雲院に葬る。

あの、嘉吉三年にはすでにお亡くなりですが・・・
「秋田家系図」を見てみる。

盛季
下国(シモクニ)安東太郎 母ハ奥州ノ国司北畠ノ源中納言顕家卿ノ女
応永二十一年二月卒、法名南嶺瑞策

盛季も嘉吉三年にはお亡くなりになって二十年を超えています・・・
新羅之記録』には次のようにある。

同(永享)十二年娶十三之湊之盛季朝臣之息女而後、義政従糠部行十三之湊、対面舅盛季、還途中而津軽者為増聞善所矣度々云

死後二十年の死人と死後三年の死人同士が対面して、若い方の死人が「津軽は聞きしに増したる善き所なり」と言っておったわけだ。
民間編纂史料である『松前旧紀』にも次のようにある。

嘉吉三年酉年の十二月、下国安東太盛季には南部大膳大夫義政と戦をいとミしか、つゐに討まけて小泊より当嶋に逃て渡らんとする

『東蝦夷夜話』にも次のようにある。

足利将軍義政公の世、嘉吉三年癸亥十二月十二日、下国安東太盛季といふもの、南部大膳太夫義正と合戦に及びしが、戦ひ利あらず、遂にうち負、津軽の小泊より渡島さして逃げわたる

東北関係の史料とおぼしき『新撰陸奥国誌』では少し改められている。

子義政嗣永享十一年己未年二月足利義教足利持氏を追討するとき追手を責敗し功によりて感状を玉はり黒母衣を許され又諱号を玉はり行政を義政と改む同十二年庚申七月十七日卒し政盛嗣嘉吉三年癸亥年十二月津軽の凶徒安東太郎盛季を伐ち文安二乙丑年下国安東康季を討つ

「南部家系図」などを見ていることが分かる。ほぼパクリだから。
しかし嘉吉三年十三湊没落を示す史料がほぼ死人同士の霊界合戦となっているのは、出所が一つであることを暗示していよう。だから同じ過ちが懲りずにコピーされるのだ。
追記
今『福山秘府』を見直していたら思いっきりツッコミが入れてあったw

按南部系譜略記、南部義政者、源光行十四世之後裔也。嘉吉元年辛酉秋七月十二日卒。然則是歳義政已不在世也。新羅記、年代記共妄説也

さらに安東氏が嘉吉年間に北海道にやってきた『松前年代記』の記述にもツッコミを入れている。

又拠略譜(三春秋田氏世系略譜)応永二十一年春二月卒。然則嘉吉中何来于我藩哉。可疑矣