茂別下国師季について

系譜によると師季は茂別下国氏の初代下国家政の孫。家政の子で「宅季」とか「家季」となっている人物は早世して、家政の孫が家政を嗣いでいる。家政の死去の年月は不明(「松前国下国氏系譜」いわゆる「松前下国氏大系図」家政項目には「下国家政卒年月葬地不可得考」とある)。従って師季がいつから茂別下国氏を嗣いだかも不明。ヒントは系譜類及び『新羅之記録』に蠣崎季広の娘と結婚した、とあること。季広は一五〇四年生まれで一五九五年に死去している。長男の舜広(間違いなく安東舜季の偏諱を受けているところからみて本来嫡子だったのだろう)が一五三九年に生まれ、一五六一年に姉に毒を盛られて二三歳で死去した。とすれば師季もほぼ同年代だろうから、一五六三年に茂別館が落城し、余生をセタナイで送った、という人生はつじつまが合う。一五六七年に死去しているから、三〇前後で死んでいるのだろう。とすれば嫡子の重季と折り合いが悪くてセタナイに没落した、という系譜の記述はいささか信憑性に欠ける。大方蠣崎氏に冷遇され、逃げたか、蠣崎氏にとっては本来主筋の人間だったので鬱陶しくなってセタナイに追放したかで、おそらくセタナイに行くように仕向けられたのだろう。重季の死後、茂別下国氏はしばらく断絶するようで、重季の弟の孫の慶季(松前慶広の偏諱を受けているに決まっている。茂別下国氏と松前氏の立場が逆転している)が継承するまでに「数十年」空いているとのこと。もし師季・重季の伝記が系譜通りならば「数十年」はない、という感じがする。慶広の偏諱を受けているのであれば、慶広の子の盛広が一五七一年生まれなので、それに近いと考えられる。
実際の慶季の年齢の取っ掛かりは、慶季の祖母、つまり直季(師季の次男)の妻は季広の十女、つまり慶広の妹に当たる。慶広との間はかなり開いていたのだ。もう一つの取っ掛かりは慶季の母も慶広の弟の蠣崎守広の娘になる。慶広の弟が祖父に当たる。つまり慶広と慶季の間は祖父と孫位離れているのだ。とすれば慶季は盛広よりは、公広に近いのかも知れない。公広は一五九八年生まれ、つまり家督を継承するのは一七世紀に入ってからである。重季の死がいつか分からないが、子どもを残さずに死んでいることを考えれば一五六三年に家督を継承してからそれほど遠くない時期に死んでいるのであろう。とすれば実際に下国氏嫡流が断絶していたのは数十年になるのだ。重季の跡を継承するはずだったのが重季の弟の由季だったのだが、彼も早世して結局由季の子の慶季となった。由季の子孫が下国氏の当主に選ばれたのは、由季も慶季も蠣崎氏の女性を母に持つからだろう。
で、本題だが、系譜から見ると、師季はやはり一五六〇年代初頭に主たる活躍が見られる人物である、ということだ。とすれば茂別館はやはり一五六〇年代まで残存していた、としか考えられない。しかし発掘調査の結論は、一五〇〇年代初頭を下ることはない、ということである。そこで考えられることは、矢不来館が陥落した後も茂別館は残った、家政の代だろうが、家政はアイヌの攻撃を茂別館にて食い止めたが、矢不来館は守れなかった。矢不来館は再建されることなく放棄され、茂別館に持てる力を集中させた、という筋書きはどうだろう。
まあもう少し松前藩家老下国氏について考察する必要がありそうだ。特に下国氏と蠣崎氏の立場の逆転は、松前藩成立史解明のために欠くことのできないピースとなっているように思われる。