斯波義敦についてー小泉氏と河村氏の論争をめぐってー
斯波義敦について先天性精神障害を持つとする小泉義博氏とそれに反論する河村昭一氏の議論をみている。小泉氏は「斯波家譜」の記述から義敦には情緒面で問題があり、知的能力の面でも障害が見られた、とし、河村氏が「斯波家譜」の記述の検討に基づき小泉説を批判している。
小泉氏が勧進猿楽の桟敷を取り違えて将軍の桟敷に乱入した事例を「斯波家譜」に見出しているのに対し、河村氏は記述通りとしてもそれは幕府のとった措置とし、さらにはそれは史実ではないとしている。
まずは当該部分を。
又義敦の事、まへに申候様に御諷諌はありなから、猶も御志しけるによりて、河原の勧進猿楽の桟敷にハ、甲斐か井けたの幕をうたせられ候て、其身ハ公方様の御座しきへ参候。
これをどう解釈するか、である。
この部分を虚心坦懐に読めば、義敦は、前に義教にしかられながらも止めなかったので、勧進猿楽の桟敷には甲斐氏の幕を張って、義敦自身は義教の席に参った、という意味になろう。
とすればここは河村氏の論の通りに、「幕府側がとった措置である」としている。ただ河村氏がそれを史実ではない、としている点はいささか首肯し難い。
河村氏は義敦が将軍義教のもとでかかわった唯一の勧進猿楽の記録には「無為」と書かれていて、「事件」の記述はないので、史実ではない、としている。しかし河村氏の言う通りに義敦が将軍席に入り込んだのが「幕府側がとった措置」であるならば、そもそもそれは事件ではない。「無為」と書いてあるからといってその史実がなかったことの証明にはならない。むしろ義敦は義教に呼ばれる形で義教の席についたのだろう。
では義敏はなぜ義敦の自然な行動を書き立てたのであろうか。これは義敏の主張の力点が「将軍の席に参った」ことにあるのではなく、なぜ将軍の席に呼ばれたのか、ということにあるのではないだろうか。しかられながらも数奇を止めない義敦を義教は説教したのではないだろうか。義教はその時に義敦の対面を慮って将軍席に自ら招いた、という形をとり、空席の斯波家の席には甲斐氏を入れさせた、ということではないか。
そう考えれば次の「斯波家譜」の記述も納得がいく。
又諸家へ松はやしの事仰出され候て、大小名ことこと勤候し時も、当方計をハ除候。
ここに関しては河村氏も「義教の意図を感じさせるところではある」とし、「ただこの原因について『家譜』は、勧進猿楽同様、義敦が『(義教の)御諷諌はありなから、猶も御志』して『数奇』を止めようとしないことに求めている」としている。河村氏は「幕府(義教)が「数奇」を止めない義敦を松拍子の沙汰人から除外した理由についてはよくわからない」とし、「義敦に沙汰させるとあまりにも奇抜なものになることが予想されたために、これを避けようとした、などという説明をさし当たり想起しうるが、もとよりなんら根拠はない」とする。しかしこれも根拠はないが、「余りにも奇抜なものになることが予想されたために、これを避けようとした」という説明よりは可能性が高いのは、義教が義敦の能力を全く評価していなかった、ということであろう。義敦には「知的能力」という言い方が妥当かどうかは別にして、少なくとも義教の目には「能力」の面で問題があるように映ったのである。
次には甲斐常治が「義敦には管領の器はない」と言い切った事件について考察を加えたい。