斯波義敦について

八戸南部氏の文書についていろいろ考えていたら、ついに斯波義敦まで考察の対象を広げなければならなくなった。斯波義敦は畠山満家の次の管領で、いろいろいわくつきの人物なのだ。
小泉義博氏は「室町期の斯波氏について」(『北陸史学』42、1993年)において斯波義敦には先天的な精神障害があり、足利義教に付け込まれて斯波氏の弱体化を招いた、と論じ、それに対し河村昭一氏は『兵庫教育大学研究紀要』第18巻、1998年)において義敦の行動に精神障害を見てとることはできない、と小泉氏を批判した。
結論からいえば、私は河村氏の議論に説得性を感じる。ただ小泉氏の議論もむげにはできない。私の印象を言えば、義敦は「少し変な人」なのだ。
義敦が「少し変な人」であるのは、義敦の四代あと、とは言い条、斯波家の当主は若死にが相次ぐので、義敦没(1433年)後29年後に斯波部衛家を継承した斯波義敏が書き残した「斯波家譜」には義敦の「奇行」が記されている。
たとえば次の記述。

犬鷹殺生之趣好ミけるを、普広院殿様(足利義教)御慈悲を以て左様の次第御禁制候し程に、上意に応し候て、停止とは申なから、や〃もすれは数奇にひかれて候

この記述を以て小泉氏は「情緒面にかなりの問題があり」とし、河村氏は「先天的なものとはいっていない」として批判している。しかし私は「犬鷹殺生之趣好ミける」ことが問題ではなかったと思うのだ。そこを問題としている、と解釈する限り、義敦の人物像は極めて一面的なものになる。即ち「精神性障害の有無」という問題である。
私はこの記事の強調すべきポイントは、義教が禁制を出したにも関わらず「停止とは申なから」「数奇にひかれて」やめなかった点に求められるべきであろう。「犬鷹殺生」とは犬や鷹を使った狩猟のことだろうが、それを好むこと自体、特に問題とすべきではない。「殺生」という言葉にひかれて、義敦を「殺生を好んだ情緒面にかなりの問題があ」る人物とし、またそれへの批判として、それが先天的ではない、という議論をすること自体がこの史料の読みとしては少しずれているのではないか、と思うのだ。義敏が記録したかったのは、義教から制止されているにも関わらず、止められない義敦の意志の弱さを問題にしているのである。
ほかの記事も同様に解釈が対立する。義敏は義敦が勧進猿楽の桟敷を取り違え、また正月行事の松拍子の沙汰からも除外されるなどの「知的能力」に問題をかかえていたと小泉氏は論じ、河村氏はその見解を批判する。河村氏も「強烈な個性の持ち主で性格的に偏執がみられたかもしれない」としていて、義敦が「変な人」であることは否定していない。だがその点を全く捨象している点が、「そんな単純な問題なのかな」という感想を抱かせる一因であろう。
以下「斯波家譜」に見る「少し変な人」斯波義敦の動きを検討していきたい。『福山秘府』巻之二も並行して取り上げるつもり。