これはひどい『函館市史』

函館市史』の中にこんな記述がある(http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-01/shishi_03-01-02-00-02%7E03.htm)。
ここに「後花園天皇宣命」なるものが引かれている。引用する。

       宣命
安倍一族之処領不レ可レ侵、東日流(つがる)外三郡ハ皇領也。依リテ皇領ノ守護職ヲ任ズル二安倍一族ノ当主ニ一者也。茲ニ犯ス二皇土ヲ一者ハ朝敵ノ輩也。安倍一族ハ代リ二天朝二一是ヲ討伐永代ニ任ズル者也。
     嘉吉三年正月
            押桐紋印
                 花押
            菊華印

これでは意味が分からない。おそらくネットに公開するに当たり訓点をきちんと処理しなかったからだろう。そこで訓点を処理したものを下に挙げる。

       宣命
安倍一族之処領不可侵、東日流(つがる)外三郡皇領也。依皇領守護職任安倍一族当主者也。茲犯皇土者朝敵輩也。安倍一族代天朝是討伐永代任者也。
     嘉吉三年正月
            押桐紋印
                 花押
            菊華印

これを読み下してみる。

安倍一族の処領、侵すべからず。東日流外三郡は皇領也。依りて皇領の守護職を安倍一族の当主に任ずる者なり。茲に皇土を犯す者は朝敵の輩也。安倍一族は、天朝に代わり、是を討伐永代に任ずる者なり。

この刊行が1980年であることを差し引いても「これはひどい」。
北方史研究はやはり榎森進氏と海保嶺夫氏の研究によって推し進められたところがあって、1980年ではまだまだ深化していないという面は確かにある。室町幕府の政治史、特に朝廷のあり方については1990年代の今谷明氏の研究によって大きく進展したところがあって、その意味では1980年段階で厳密な記述がなされていないのは、仕方がない、と言いたいところだが、『函館市史』の場合はそういう問題でもなさそうだ。1971年の佐藤進一氏の『古文書学入門』を読めば、「朝敵の討伐命令に宣命はないやろ」ということは、『函館市史』編纂に参画している人ならばわかりそうなものだ。そもそも「宣命」は「宣命体」で書いてくれないと「宣命」ではない。「宣命」であれば、テニヲハを万葉仮名で表してくれないと。そして宣命体の詔書すなわち宣命は佐藤氏によれば「特定の場合、例えば伊勢神宮以下の神社に宣誥される場合に限られるようになった」(『古文書学入門』60頁)ということである。
このあやしげな「後花園天皇宣命」なるものは、tonmanaangler氏が「後花園天皇の宣命 - 国家鮟鱇」でおっしゃっているように「あの有名な偽書」関係だと思われる。特に「東日流(つがる)外三郡ハ皇領也」の部分はあやしさ全開。おそらく「東日流(つがる)外三郡」関係のアレでしょう。当時引っかかる人続出だったし、その点は1980年という事情を考えれば仕方がないか。
後花園天皇は実際に朝敵治罰綸旨の発給を多く行った天皇ではあって、永享の乱にはじまり、嘉吉の乱大和国の争乱などに治罰綸旨を出している。
アレ関係者の方が今後偽書を作り上げる際の参考にもなるかもしれないので(笑)、以下に嘉吉の乱の時の治罰綸旨を挙げておこう。

被 綸旨偁、満祐法師并教康構陰謀於私宅、忽人倫之紀綱、拒 朝命於播州、相招天吏之干戈、然早発軍旅可報仇讎、尽忠於国致孝於家唯在此時、莫敢旋日、兼亦与彼合力之輩、必可被処同罪之科者、
綸言如此、以此旨可申入給、仍執達如件
   八月一日      左少弁俊秀
 謹上 右京大夫殿
(出典『建内記』嘉吉元年八月一日条)

ポイントを挙げておくと、綸旨は私文書の系統に属するので、日付は年号を書かない。「左少弁俊秀」というのは奉者。天皇の意を承って実際に書く人。ちなみにこの綸旨は後花園天皇自らが起草した変わった綸旨。坊城俊秀の起草した綸旨がそっけないものだったので気にくわなかったらしい。書止文言もテンプレがある。あと朝敵の名前くらい書こうぜ。