南部氏に拒否された室町殿の対応

下国氏が南部氏に敗れ、室町幕府が調停に乗り出したが、それを南部氏が拒否した時、室町幕府に何ができたかを考えなければならない。
通説となっている「十三湊還住説」では室町幕府が強力な指導を行なった、とされている。しかし実際に室町幕府に何ができただろうか。
室町幕府の武力を検討する。上杉禅秀の乱では室町幕府は上杉房方(越後守護)、今川範政(駿河守護)、小笠原政康(信濃守護)と京都御扶持衆に出兵を命じている。永享の乱では今川範政、小笠原政康に加えて上杉禅秀の遺児を差し向けている。関東方面の室町幕府の最前線が駿河、越後、信濃であることがわかる。実際駿河が「国境」と呼ばれていたようだ。陸奥国では篠川公方足利満直、奥州探題大崎斯波氏が室町幕府出先機関として機能していた。では足利義教は南部氏が室町幕府の命令を無視した場合、大崎斯波氏や足利満直に出兵を命ずる事ができただろうか。答えは否である。
足利満直は関東公方を背後から牽制するために現在の福島県に本拠を置いていた。満直が南部征伐に向かえば、対関東への牽制が機能しなくなる。永享四年には義教は富士遊覧を行なって関東への圧力を強め、両者の間に緊張が高まった時期である。満直を南部征伐に振り向けるのは事実上ない。大崎斯波氏はどうか。大崎斯波氏は大野斯波家と南部氏を結ぶ「手筋」であった。南部氏のために動くことはあっても、室町幕府が南部氏討伐を決定しても、大崎氏が動くとは思えない。そもそも大崎氏と篠川公方は同じ室町幕府側の勢力とは言っても、篠川公方細川京兆家を「手筋」としており、この両者は競合関係にあった。要するに室町幕府津軽地域の動乱に介入するための強力装置を発動しうる条件にはなかったのである。この地域の紛争に対しては室町幕府にできるのは政治的折衝だけである。
室町幕府が南部氏の拒否にあたって実際に動いたことを示す史料は存在する。

(端裏書)
「口 宣案」

上卿 洞院大納言
永享四年十月十四日 宣旨
 左近衛将監源長安
 宜任遠江
 蔵人頭右大弁兼長門権守藤原長忠
(八戸南部家文書一四四)

文中の「源長安」は八戸南部家の南部長安。口宣案が室町殿の承諾なしに発給される事は考えられないので、これは義教が朝廷に出させたものと考えて良い。永享四年十月十四日というのは、南部氏が拒否した事が『満済准后日記』に出てくる日付の七日前。下国家と和睦する条件として室町幕府が出したものと思われる。逆に言えば室町幕府は南部氏に官位をちらつかせるしか手だてがなかったのである。
この口宣案と『満済准后日記』の記述との時間軸についてはもう少し考えてみたいが、現時点での試論(もちろんすぐに変わる可能性がある)を示すと、永享四年十月二十一日に満済が安藤下国家と南部氏との抗争の件を記録する以前には両者と幕府の交渉は行なわれていた、と思われる。ここは家永氏が指摘するように管領の斯波義敦から細川持之への交代に当たり、満済にも意見が求められた、ということであろう。ちなみに満済は将軍の諮問を当時は山名時煕に伝える担当で、畠山満家に伝えていたのは畠山満慶であった。
十四日に口宣案が出された後に二十一日に畠山満家山名時煕・赤松満祐の三人に対して南部氏と下国氏が合戦した事、下国氏が敗北して「エソカ島」に没落した事、下国氏が調停を求めた事、南部氏が調停を拒否した事が述べられ、もう一度南部氏に仰せ遣わすべきかが諮問されている。ここで興味深いのは満家と他の二人は反応が違う事である。満祐と時煕は仰せ遣わすべきだ、と答えたのに対し、満家は「重ねて申し入れるべし」と言っている。義教の言葉に対しては「仰せ遣わす」を使うから、ここの主語は満家であろう。満家は「もう一度畠山家の意見を申し入れましょう」と言っているのであろう。つまり回答保留である。十一月十五日に満家は義教の躊躇を押し切って御内書を発給するように強く主張している。満家は下国家側の意向を確かめてから御内書発給の主張に踏み切ったのであろう。しかしそれは従来に比べて室町殿の意を直接に表現するため、かなり強い表現になり、それが無視されたときのことを考えて義教は躊躇してしまうのである。満家は無視されても義教の威光は傷つかない事を力説し、説き伏せた、と考えられる。しかし満家が、御内書は受け入れられない事を前提として発給する事を強く主張したことからうかがえるように、南部氏が受け入れる蓋然性は低いと私は考えている。