『応永の外寇の探究』

ここでは中立の立場から歴史を検証する。ここで依拠したのは日本人の証言である。朝鮮王朝の証言は採用しなかった。朝鮮王朝の調査によってもたらされた証拠も採用しなかった。 もしこれらを採用したなら、朝鮮王朝の立場を擁護する政治的偏向の書であるとの非難を惹起し、 人々は私の調査に関心を寄せないだろうと考えたからである。
朝鮮王朝によって攻撃を受けた対馬の被害を記録した日本側の証言は『看聞日記』に収載されている「探題持範注進状」である。
日本側の被害を述べたところでは次のようにある。「蒙古高麗一同ニ引合て軍勢五百余艘対馬嶋ニ押寄」「日夜合戦を致之間、敵味方死する物数をしらす
どうやら「数を知らず」ということであるが、そもそも当時攻めてきたのは朝鮮王朝であって高麗ではないし、元はすでに北部に動いて久しく、クビライの子孫も耐えてしまっている。また当時の九州探題は渋川義俊であって、「持範」という名前の人物は存在しない。社会的な常識、コモンセンスを以て到達した結論は、混乱(コンフージョン)や無秩序(ディスオーダー)は存在したと云えるが、決して虐殺(マサクル)はなかったというものだ。戦闘員による計画的な、ナチがユダヤ人にしたような大虐殺は朝鮮軍攻撃下の対馬ではなかった。

いや、これはひどい。ここで意図的に「採用しなかった」証言とは「我師十餘艘先至對馬島, 賊望之以爲本島人得利而還, 持酒肉以待之。 大軍繼至, 泊豆知浦, 賊皆喪魄遁逃, 唯五十餘人拒戰而潰, 悉棄糧儲什物, 走入險阻, 不與敵。 先遣投化倭池文, 以書諭都都熊瓦, 不報。 我師分道搜捕, 奪賊船大小百二十九艘, 擇可用者二十艘, 餘悉焚之, 又焚賊戶千九百三十九。 前後斬首百十四, 擒生口二十一, 芟除田上禾穀, 獲被虜中國男婦百三十一名」というものである。
つまり五十人は踏みとどまって戦ったわけであって、これは戦闘行為だが、「斬首百十四」となると戦闘行為をしていない者までも殺害していることになる。二十一人は生け捕られてしまっている。家は一九三九戸燃やされている。甚大な被害が出ていることが想定できる。事情を考えればおそらくモンゴル・高麗連合軍による文永の異国合戦よりも被害は大きいだろう。文永の時は早晩モンゴルが襲来することは予測できており、鎌倉幕府は数年前から西国御家人に対してモンゴルとの戦闘準備を整えさせているからである。今回は「賊望之以爲本島人得利而還, 持酒肉以待之」つまりやってきた朝鮮軍対馬の交易船もしくは倭寇の船と勘違いし、歓迎のための酒宴の用意までしているところに襲撃を受けたのである。
この結末については朝鮮側が大きな被害を出して撤退し、渋川義俊と少弐満貞がそれぞれ朝鮮に使者を送って真意を確かめさせ、足利義持と朝鮮側の使者宋希蓂との間で交渉が行なわれ、決着している。この事件の後には対馬は対朝鮮交易において大きな役割を果たすことになる。