「元寇」はなかった?
まずは「順性御物以下注進状案」(『青方文書』所収、出典は『松浦党関係史料集 第一』二〇二号文書)より。永仁六年(一二九八年)の話。
葛西殿御分
注進 御物以下雑物等事
一 さきん*1弐百四十両、四もんめ
一 まとめかね六十切
一 ほそきぬの事 二十ひろのぬの四十三たん、十三ひろ廿たん、三十ひろ廿五たん、四十ひろ十三たん
一 ミつかね*2たる二
一 かなとう*3一りやう、むらさきかはおとし*4
一 はらあて*5一りやう、けハあかゝハおとし
一 たち*6一こし、めぬきハきんをすかす、あさらしのしさや
一 さすり(かカ)二、ふへとうつか、さやのしりぬき、きんをすかす
一 ちやつきのたい*7、なしちにきんのひたをまく
一 ちいさきはんさうたらい*8、なしちのまきゑ
一 すゝはこ*9八かくるり、なしちにまく
一 をくむらさきのとのいもの*10、うらをもて
たゝしをもてハかうしのあやなり
一 ちやいるゝものゝたい*11、なしちにきんのゑたをまく、これハ見とり了
一 まきゑのすゝりはこ*12一
一 小袖四、よつのうち二ハわたあり、二ハあわせなり、よつなからしろし
永仁六年五月廿日 順性在判
これは難破した貿易船に積載されていた荷物の中の一部のリスト。荷主の「葛西殿」は極楽寺重時の娘で鎌倉幕府五代執権北条時頼の正室、つまり前執権北条時宗の母である。「唐船」というのはこの場合大元大モンゴルウルスへの貿易船のことを指す。当時の大元大モンゴルウルスの大カアンはクビライの孫のテムル。弘安の役より二十年も経たない間に鎌倉幕府のそれも最高責任者の母親が大元モンゴルウルスに貿易船を派遣しているのだ。しかしこの事実を以て「元寇はなかった。本当に事件があったなら、大元大モンゴルウルス人にやさしくできるものか、理解できない」と発言するデンパな人がいないことは幸せだ。
ついでにもう一つ。
「恵存御物以下注進状案」(『青方文書』所収、出典は『松浦党関係史料集 第一』二〇五号文書)より
大方殿御物以下所持物注文事
合
一 金佰弐拾捌切内、参拾伍者円金、玖拾参者砂金
一 水銀拾柒筒
一 銀劍伍腰
一 白布弐拾玖端内、伍端者拾伍尋、拾端者拾□□
一 白帷弐
一 唐紗袈裟壱条
一 衲衣壱領
右、注進之状如件
永仁六年六月廿七日 恵存在判
「大方殿」は安達義景の娘で北条時宗の正室、当時の得宗北条貞時の母のこと。当時の鎌倉幕府の最高責任者の母と祖母がそろって元に貿易船の荷主となっている。これらを根拠に「元寇」を否定する変な人がいないのは幸せだ。