斯波義淳の政治的位置づけ

河村昭一氏「管領斯波義淳の政治活動」(『政治経済史学』417・418号、2001年)と吉田賢司氏『室町幕府軍制の構造と展開』(吉川弘文館、2010年)を読んだ。
斯波義淳に関する問題をクリアしなければ、下国康季の十三湊没落と室町幕府の関わりを確実に論じることはできない、という印象を強く持った。というのは、家永遵嗣氏の提起した議論、すなわち管領が斯波義淳から細川持之に変わったことが、足利義教津軽問題に関する姿勢を、南部氏よりから安藤氏よりに変えた原因であり、下国氏の手筋を細川氏がつとめていた、という議論に対して、斯波義淳のおかれた状況を考えれば、下国氏没落の時点で義淳が影響力を有していた、とは、前二著を拝読する限りでは考えられないのである。
義淳は関東をめぐる問題で義教と対立しており、さらには強硬に関東公方サイドに立ったことで諸大名からも孤立していた、と考えられる。義淳は管領辞任直前に辞表を提出し続けていたのも、義淳の当時の政治的状況をよく示している。義淳と義教の周辺で処理されていた、というのは考えがたい。むしろ義教の一存で処理されていたのだろう。義教は下国氏と南部氏の抗争に介入することに対しては消極的であった。その事実は無視できない。