「王女の男」をアジア史的パースペクティブに位置付ける2

「王女の男」は1453年の朝鮮王朝の政変を部隊にしたドラマだが、悪役のスヤンとシンスクチュには彼らなりの事情があったことを述べたが、日本・明・朝鮮だけではなかった。1453年には琉球でも志魯・布里の乱が起こり、首里城が炎上、その五年後には護佐丸・阿麻和利の乱が起こる。そして1469年には金丸が即位、尚円となる。
北海道では1456年にコシャマイン戦争が起こっている。私はコシャマイン戦争の原因の一つとして安東氏の分裂を想定している。安東氏が嫡流の定季に対して傍流の政季・家政が進出してきたことによる混乱とそれに対するアイヌの行動がコシャマイン戦争であった、と考えている。
これらの動きが、独立して起こっている、とは考えづらい。これらには相互に連関がある、と考えられよう。
今のところ、一番最初のきっかけが足利義教の暗殺である。とすれば義教に始まってドミノ倒しのように王権の弱体化が連鎖して起こった、と考えている。今日、寝る前には考えが変わっているかもしれないが。そしてそもそも義教暗殺の原因が、義教の「凶暴」化にあり、それが義教なりの王権の再編策だったとすれば、当時のアジア海域に、王権の弱体化の連鎖が起きていたことは、十分に想定しうる。それが何だったのかを考えるのがしばらくの課題となりそうだ。それが明日目が覚めるまでか、数年なのかは皆目分からないが。