「王女の男」をアジア史的パースペクティブに位置付ける3

「王女の男」、考えれば今日第1話なんだな。多分見ない。
その背景となっている「癸酉靖難」。1453年に前国王文宗の弟のスヤン・テグン(首陽大君)が甥の現国王端宗を廃して自ら王位に上った事件なのだが、そのころ一斉に周辺諸国で政変が起こっている背景について少し思いついたことを。
海域アジア(明の海域及び朝鮮・日本・琉球・東南アジア諸地域を含む地域)においては、一五世紀後半、より細かく言えば1460年代後半より経済が上向きになる。ということは、1450年代というのは「夜明け前」の一番経済が落ち込んでいる時代だったことになる。室町日本において頻発する一揆もその現われなのだろう。
しかし気になるのは、ドミノ倒しのように王権の動揺が起こっていることである。そしてその始まりが日本国王が斃れた嘉吉の乱である、ということも、少なくとも癸酉靖難に関わりがあるだろう。スヤンの部下のシン・スクチュが嘉吉の乱直後の日本に来ていること、嘉吉の乱直後の日本の混乱を目の当たりにしていること、その混乱によって王権の権威は地に落ちていたことを考慮すれば、癸酉靖難の前提に嘉吉の乱を見る見方はあながち見当外れではないだろう。
室町日本が「極東の小中華」「中華幻想」というような「東夷の小帝国」意識を有していたことは間違いがないところだが、スヤン(世祖)もまた小中華意識を強く持った王権であった。かつて足利義政と世祖の関連について考察したことがあるが、その点は再考してみる価値があるかもしれない。