面白い史料

こんな史料を見つけた。

就近般信長恣儀相積、不慮城郭取退候。然此節甲州令和談、天下静謐馳走頼入候。為其差越一色中務大輔。猶藤長可申可申候也。
三月廿日 御判
徳川三河守どのへ

織田信長と対立していた足利義昭が、武田信玄と和睦して織田信長と戦うように「頼み入る」御内書。しかし徳川家康に送りつけるとは度胸がいい。逆にいえば、今日我々は織田ー徳川同盟を強固だったと思っているが、それは結果論だ、ということだろうか。戦国時代の研究については詳しくないので、あまり知らないが。
これと同じ御内書を水野信元にも送りつけているのだが、信元は武田への内通を佐久間信盛に疑われて殺害されているから、義昭もなかなか罪作りなやつだな。
追記
tonmanaangler氏http://http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20120720/1342773227への私の返答。私の出展は『後鑑』。そこの綱文には以下のようにある。
「伝御書於神祖及水野下野守信元、被命援兵事。」
ちなみにこれは元亀四年、天正元年の文書。二月に幕府方の堅田城が落城した段階で、元亀四年三月は義昭はまだ在京している。義昭が京都から出て行くのは七月に入ってからである。「城郭」と「城都」だが、当時の事情を鑑みれば、「城郭」が正しいだろうし、『後鑑』の記載を信用するかどうかの問題だと思う。
追記
水野信元あての御内書は『後鑑』によれば「前文同断」とされているので、信元あてには「一味」、家康あてには「和談」とかいてあるわけでもない。