琉球国王宛の文書の題名をめぐって

まずは史料を一つ引用する。
題して「琉球国王尚真宛室町将軍足利義晴御内書」

御ふみくハしく見申候。進上の物ともたしかにうけとり候ぬ。又この国と東羅国とわよの事申とゝのへられ候。めてたく候
  大永七年七月廿四日 御判在之
    りうきう国のよのぬしへ

この題目にはいくつかの問題がある。この題目がはらむ問題点は、ヤマトンチュが沖縄に抱く先入観と密接な関係がある。
まず「琉球国王」と「室町将軍」の非対称性である。「琉球国王」はいうまでもなく明の冊封のもとでの称号である。「琉球国王」に相当するのは「日本国王」でなけばならない。「琉球国王」は国内においては「世の主」を称していた。ちなみに「世の主」に対応する称号は私は「室町殿」であると考えている。将軍であると否とを問わず、「室町殿」と呼ばれる足利家家督者が対外的には「日本国」の王権保持者として認識されるのである。
明の冊封体制の影響下にあった「琉球国王」と「日本国王」、独自の華夷秩序を形成していた「世の主」と「室町殿」、これをあえて「琉球国王」と「室町殿」の関係にすることによって、琉球が独自の華夷秩序を形成していた事実から目を背けさせることとなる。
次に「御内書」という文書名である。室町幕府の関係者が「御内書」と認識していたから、「御内書」と言えば御内書なのであるが、今日、我々が考える御内書と、当時の室町幕府関係者が考える御内書の概念にズレがある。このズレは同時に今日の我々と室町幕府関係者の「内と外」意識の違いなのである。
御内書とは何か。要するに上意下達の文書である。一応室町殿の私用を弁ずるための書状形式であるが、発給者である室町殿と受け手との間に君臣関係がある場合、室町殿の発給する文書は尊大な形式になる。 普通の書状であれば書止めが「・・・候、恐々謹言」となるが、御内書は「・・・也」「・・・也、状如件」などになる。琉球宛の「御内書」は「・・・候」となっているので少し違うが、「恐々謹言」などの文言がないので、上意下達文書である「御内書」に分類すること自体は失当ではない。
問題は上意下達文書であること、君臣関係を如実に示すことは、それが上位者である室町殿と一体感を持つこと、同種同文と意識されることを直ちに表すことを意味しないことである。つまり「御内書を出しているから国内だ」という意識が問われなければならない。
それに対する一つの解答が「国書」とすることである。黒島敏氏ははっきり「国書」と題している。基本的には従うべき見解であると考える。
ただここで考えたいのは、室町幕府関係者、具体的には伊勢氏がこれら「国書」とでもいうべき内容を「御内書」と定義していることである。君臣関係でやりとりされるこの文書を「御内書」と定義したのであろう。しかし伊勢氏がその君臣関係を同種同文で、一体感を持つ、守護大名に準ずる関係と認識することを意味しない。

御内書に御君印出され候事候哉。おもてむきの御内書に朱印の御事不理覚悟候。又古府案候も不及見申候。琉球国御朱印を出され候御事は、勘合と申て、格別の御儀にて候。大唐、琉球、高麗、此三ヶ国へは勘合と号して、彼三ヶ国より調進申。其を出され候事候。下々にわりふなと〃申やうなる儀候。
「伊勢貞助雑記」

明、朝鮮と並んで琉球が並べられている。室町幕府にとって琉球の位置づけは明らかに「外」だったのである。「外」であるからこそ、室町幕府は自己の華夷秩序、橋本雄氏の言葉を借りれば「中華幻想」を満足させることができたのである。室町幕府が抱く「中華幻想」が十全な関係で明示化されるのは、琉球との関係しかない。琉球が「内」であれば、「中華幻想」が発揮される場はないのである。