秀吉と政宗2


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秀吉と政宗の会話から、戦国時代とは、というテーマを考える企画。
秀吉が政宗に対して「戦争禁止」と言っているのは、「惣無事」のことである。原文は以下の通り。

関東・奥両国迄、惣無事之儀、今度家康ニ被仰付候条、不可有異儀候、若於違背族者、可令成敗候

これをわかりやすく読み下すと「関東・奥両国まで、惣無事の儀、今度家康に仰せつけられ候条、異儀あるべからず候、もし違背の族においては、成敗せしむべく候」となる。「関東・奥の両国まで惣無事のことについては、家康に仰せつけられたことについて、文句をつけてはならない、違反したものについては、成敗する」ということである。
「惣無事」とは私戦禁止、自力救済の否定ということである。中世社会は自力救済の原理が貫徹する社会であった。揉め事は自分で解決するしかない。訴訟を起こして勝訴しても、判決文をくれるだけで、自分で解決せねばならない。いきおい武力を持っていることが有利に働く社会であった。
室町時代こうはん、応仁の乱後に将軍足利義稙細川政元によって引きずり下ろされ、代わって足利義澄が擁立される、という明応の政変が勃発する。しかも政元は義稙の処分に失敗し、義稙は大内義興を頼って反政元活動を開始する。関東ではその数十年前に関東公方足利成氏と対立した室町公方足利義政によって、新たな関東公方足利政知がくだされ、一足早く公方の分裂という戦国的状況に至っていた。この事件を享徳の乱という。
これらの一連の事件によって室町幕府の統制力は失われ、各地の勢力は私戦によって自らのせいりょくをかくだいし、あるいは自らの勢力圏を守らなければならなくなった。これが戦国時代である。
戦国時代には自力救済の原理に基づく私戦が大名相互で行われる一方、大名の領国内では私戦を抑制した。喧嘩両成敗は私戦の禁止の一方策である。私戦の禁止を大名相互に適用したのが秀吉の「惣無事」なのであり、それは戦国時代の終焉宣言だったのである。もっとも徳川家康豊臣氏の滅亡を「元和偃武」として、戦国時代の終焉としている。
次は、そのような中、政宗や秀吉がなぜ室町的秩序を持ち出すのか、を考えて見たい。