「印判・あや船」を読む

黒嶋敏氏『中世の権力と列島』第五章「印判・あや船」を読む。
画像は島津義久(旧)。天カードは一切関係ない無課金者である。ただこのカードで気になるのは、顔の十時型の拘束具。もしかしてレクター博士か?と思う点で年齢がバレる(滝汗)

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黒嶋氏の室町時代における日琉関係の歴史研究は、島津氏一辺倒の研究状況を批判し、室町将軍家や細川家、大内家のような上位権力の存在に着目すべきことを主張したものであり、島津氏による日琉関係の独占と考えられてきた印判は、単に薩摩の船の渡航の安全を保証した過書であり、またあや船は室町将軍家の代替わりに派遣されたものであった、としたが、島津氏の過小評価という批判を受けることになる。
その批判に答えるために黒嶋氏は島津氏の史料状況を検討する。「はじめにー編纂物の魔力ー」という節の名前が黒嶋氏の行論を指し示している。
島津氏は戦国時代に嫡流から傍流に家督が移動するが、その移行は決してスムースなものではなかった。室町中期の久豊の子孫を奥州家(陸奥守の官途を世襲したため)と呼ぶが、奥州家は久豊ー忠国ー立久ー忠昌ー忠治と父子で継承が行われたが、忠治の死後、弟の忠隆ー勝久と兄弟で継承され、勝久が豊後に逃亡した後、伊作家を継承した立久の弟の久逸の子孫である貴久が相州家(相模守の官途を世襲)を継承し、島津氏惣領の座に就く。しかし勝久から貴久への文書の継承はスムーズに行われず、義久からさらに家久までかかるのである。ちなみに由緒ある家における文書は権威の源泉であり、文書の所有は、守護の家督にとって不可欠のものである。
その文書を近世になって編纂したものが現在の島津氏関係史料であるので、その利用については、注意されるべきである、と黒嶋氏は主張する。