『大乗院寺社雑事記』文明十五年正月二十四日条を真面目に読んでみる

ここ(最近お目にかかった高名な考古学研究者)http://d.hatena.ne.jp/arch74324/20140209経由で関口明氏の「中世日本の北方社会とラッコ皮交易」(『北海道大学総合博物館研究報告』6、2013年)を拝読する機会を得た。ラッコの皮の流通とそれをめぐる歴史を中世の史料やユーカラから分析する研究である。ただ室町時代の史料の解釈に少し疑問を覚えたので、その疑問にこだわって見たい。
具体的に言えば、『大乗院寺社雑事記』の解釈に疑問があったのである。氏は「『覚悟』をもって行われているのであるから、需要動向に関する情報を入手していたのであろうし、ある程度の量が恒常的に日本に入ってくるルートが確立していたことを推定させる」(50頁)とされるが、ここに疑問がある。
そもそもこの記事は楠葉西忍が永享四年に明に行った時の体験を翌年に遣明船の派遣を控えた大乗院のためにレクチャーしているのであり、永享四年段階の情勢と見るべきである。「ある程度の量が恒常的に日本に入ってくるルートが確立していた」かどうかは、はなはだ心もとない。結論から言えば、事実は逆で、ラッコの皮は永享年間に一時的に入ってきたものの(だから「らっこの皮な者」という言い回しが残る)、それ以降はほとんど入ってこなくなったのではないか。16世紀中葉に足利義晴が若狭守護の武田義統に対してラッコの皮の礼を述べているが、そこで「珠珍候」と述べていることからも、ラッコの皮が「相当量流通していた」という関口氏の想定には無理がある。
でとりあえず『大乗院寺社雑事記』を検討してみようと思う。