室町時代におけるラッコ関係史料からわかること

備忘録的に。
ラッコ関係史料が示すものは、永享年間の特異性であろうかと思う。足利義教による都鄙関係の再編は、大内盛見の死によって大きな転機を迎える。
北方関係で言えば、安藤康季の没落は、反足利義教勢力である斯波義惇と足利持氏による勝利であり、義教が彼らに一定譲歩せざるを得なかったのは、大内盛見の戦死が響いているであろう。九州関係には積極的な義教は、北方関係には消極的な対応を示し、逆に九州には不介入を主張する畠山満家は北方には積極的な介入を主張する。畠山満家と斯波義惇は永享五年に相次いで死去し、義教は新た都鄙関係を構想するようになる。その過程の中で若狭守護を近臣の武田信栄にすることに成功した義教は、北方社会への介入の手がかりを得たが、信栄は肝心の小浜の掌握に失敗し、一色氏と武田氏の対立の中、混迷を深めて行くのではないだろうか。
ラッコの皮の大量導入は、応永から永享という時期のものであり、特に永享年間に大量に導入されたのではないか、と思うのである。そしてそれは、永享年間をリードした足利義教の個性と切り離せないと考える。
ちなみに北方の偽史には後花園天皇がよく出てくる。南部氏を御所に呼んで涙にくれたり、安藤氏に南部氏追討命令を出したり、羽賀寺を再建するように命令したり、ととにかく忙しい。これも足利義教の政策と関係あるだろう。後花園天皇の治世は、足利義教足利義政にまたがるのだが、この時代は室町幕府と北方社会が最も深く関わる時期であった。
以上、本日の思い付き。間違ってもこれを元にしてウィキペディアを編纂しないようにw