網走市出土の板碑に関連するかもしれないこと

網走市で出土した「応永の板碑」について。
渡辺美彦氏「網走の『応永』板碑のルーツを追う」(『生産の考古学?』同成社、2008)によれば、「応永廿四」の年記があり、多摩川下流域に分布するタイプであるとのことだ。詳しくは「http://d.hatena.ne.jp/arch74324/20140412/1397300687」を参照。
で、応永二十四年だが、なかなかややこしい時期ではある。板碑に刻まれた年号が板碑の完成を表すのか、板碑を作らせた人物あるいは集団にとって特別な意味を持つ年号を表すのか、そこが問題として残るが、さしあたり応永二十四年に多摩川下流域の周辺で何があったかを見ておこう。
一言でいえば上杉禅秀の乱の鎮圧、これに尽きる。前年の十月に禅秀が足利持氏を攻撃し、持氏は駿河に逃れ、十月二十九日には義持は持氏支援を決定し、応永二十四年正月には足利満隆、上杉禅秀、足利持仲が自害して事件は決着する。三月には持氏が義持に感謝の使者を派遣する。その中に「関東大名」南部氏もいたのである。いわば「義持の平和」が実現した、と表面上には見えた。
応永二十四年に作られたとすると、この板碑は「義持の平和」による「都鄙合体」を記念し、その犠牲になった人物を供養したものと考えられる。「応永二十四年」が何らかの事件の記憶であるとすると、禅秀及びその余類の滅亡であり、禅秀の乱で持氏方に立って犠牲になった人物の供養と考えられる。何れにせよこの板碑に刻まれた「応永廿四」という年号は、この板碑が禅秀の乱と密接な関係を有していることを示唆している。
ではこの板碑がなぜ網走に持ち込まれたのか。それについてはまた。