網走の応永板碑に関係するかもしれないこと2

禅秀の乱に関わったであろう南武蔵の武士団だが、どういう経緯で北海道も網走に向かったのだろうか。ラッコの皮や鷲の羽を求めた野心的な集団なのか、本領を追われて失意の没落と流浪の果てなのか。それを考える一つの材料を提示しておきたい。
以前にも取り上げた『御前落居記録』39号文書。

海老名美濃守与小野松夜叉丸并河野加賀入道性永相論近江国小野社神主職・同国則永名事
(中略)次則永名事、兼季如訴状者、河野依御賀児〈当時師〉被官人、被没収彼名、雖令拝領〈御下文同前〉、本主於国支置之、剰掠給御判之由訟之、性永如陳状者、御賀家来之跡可被収公所帯重科何事哉、其上帯同廿二年安堵、領知無相違之由陳之、所詮、彼被官之輩可被召放所領之段、凡為不便歟、雖然為其時之法申給訴人、非無由緒、就中立帰遵行之地、押領之条、難遁其過之旨、同被経御沙汰、被下御判於兼季訖
永享三年十一月十三日(以下略)

読み下し。

海老名美濃守と小野松夜叉丸并びに河野加賀入道性永が相論す、近江国小野社神主職・同国則永名の事
(中略)次に則永名の事、兼季訴状のごとくんば、河野は御賀児被官人により彼名を没収せられ、拝領せしむといえども、本主国においてこれを支え置き、剰へ御判を掠め給わるの由之を訴ふ。性永の陳状のごとくんば、御賀家来の跡の所帯を収公せらるべき重科何事哉、其上同廿二年安堵を帯び領知相違なきの由之を陳ぶ。所詮、彼被官の輩所領を召し放たるるの段、凡そ不便たる歟。然りといえども其時之法として訴人に申し給わる、由緒無きにしも非ず。就中遵行の地に立ち帰り押領の条、其過を遁れ難きの旨、同じく御沙汰を経られ、御判を兼季に下され訖
永享三年十一月十三日(以下略)

要するに義満関係者であった河野加賀入道が義満の死と義持の実権掌握によって失脚し、義持時代の見直しを掲げた義教政権に期待をかけたが当てが外れて領地を失った、ということである。
河野加賀入道というのは加賀守の官途名乗りを有していたことを示す。河野加賀守といえば、箱館をウスケシの地に築いた河野加賀守政通もしくは河野加賀右衛門尉越智政通だが、加賀守の官途名乗りが一致する。特に加賀右衛門尉となると、加賀守の子の右衛門尉ということになる。政通が性永の子である蓋然性は高いと言えよう。
どのようなルートを辿って没落者たちは新天地北海道を目指すのだろうか。次回はそれを考えたい。