永享三年六月六日条続き
一、越後守護幸龍丸(上杉房朝)、在京のあり方が不可思議である。雑掌が一人祗候しているのはよろしくない、ということを、畠山(満家)より仰せ付けるようにということを畠山に申せ、ということであった。
一、上杉兵部大輔(上杉頼藤)の所領の事について、越後守護代長尾入道(邦景)が異議を唱えている。度々仰せ出されたところ、遵行しなかった。たいへんけしからんことであり、とんでもないことである。なるべく早く所領を返すべきである。この間に伊達(持宗)より竹林院坊主(伊達が帰依している僧である、ということだ)よりわざわざ申し入れてきたことを、右京大夫細川持之)が申し入れてきた。もし長尾が去り渡さないのであれば、上意に従い入部しましょう、とのことである。そうなれば合戦に至るだろう。それは勿体無い、ということを仰せ付けよ、とのことである。
一、当国(山城)寺田郷の事、相国寺領である。代官職の事は、畠山(満家)がこれを担当してきたのであるが、年貢が未納であると相国寺が申し入れてきた。この荘園は公方の口入で畠山と契約したと寺家は申し入れている。口入の件は覚えていないのだが、どうだろうか、調べよ、とのことである。
一、管領(斯波義淳)の進退の事、行き違いの詳細を甲斐(将久)と織田を呼びつけてしっかりと義淳を諌めるように申しつけよ、とのことである。
一、熊野と小島(児島か)の辺り、然るべき修験者を呼ぶように聖護院准后(満意)に申しつけよ、とのことである。
一、相国寺の今度の沙弥や喝食の騒動はとんでもないことである。張本については処分があるだろう。内々に長老に尋ねよ、とのことである。
これらの条々は来たる八日に京都に出て来た時に申しつけましょう、ということを承った。
畠山、山名(時熙)、管領などより使者が来た。重要事だったので対面して直接に問答した。酉の半刻(午後七時ごろ)過ぎに寺に帰り着いた。広橋(兼郷)より御教書で明日より雨を止める祈祷を醍醐寺と東寺の者に仰せ付けよ、明日七日より始めよ、とのおとである。早々に申しつけましょう、ということを返事した。
八日、晴、愛染護摩が結願した。早朝に京都に出た。但し食事は済ませた。明日(九日)、九州に下向する両長老無為和尚、騰西堂と奉行両人(飯尾肥前守(為種)、同大和守(貞連)、大内雑掌が自分の所に来るように下知なさるように、という内々の上意を経祐法眼を通じて赤松播磨守(満政)に申し遣わした。畠山方より遊佐河内守(国守)を通じていろいろ申して来た。一昨日仰せの条々を申した。山名金吾禅門(時熙)が来た。九州へ重ねて上使両長老を下し遣わされる事、内々に相談なさったことがあった。その仔細は今春上使の下向の事、尤も相談なさるべきところ、大内(盛見)と大友(持直)の和睦の事、一日も早く仰せ遣わされるべきということを探題(渋川満直)よりも申し入れ、大内もまた同前ということなので、是非に及ばず下し遣わされた。今度もまた同前の儀であるといっても重ねて上使下向の事、大内からは無益で下すべきではない、と頻りに申し入れて来ている。詳細を尋ねたところ、今度も筑前国立花城以下、大友の知行の所々の拠点をことごとく陥落させた。そこでおそらくはこの拠点を返した後に和睦しましょうと申し入れるつもりだろう。その時は御沙汰の中身は私にとっては第一の難儀である。平に御略されたい、ということを申し入れた。この一段においては重ねて御成敗があるだろう。以前両上使がまだ京都に来ていない間、大内・大友両人の心中では早々に和睦するだろうということを仰せ下された。どうだろうか、ということである。山名の申し入れの内容は、重ねて上使を遣わすことはまことによろしいことである。早々に下し遣わすべきこと、なおなお御沙汰なさるのがよいでしょう、ということであった。畠山の意見も同前であった。