永享三年五月
廿四日、晴。早朝に京都に出た。少し雨が降ってすぐに晴れた。巳の初め(午前九時)室町殿参る。随心院壇所において待って申し入れた。幾ばくもなく御対面となった。九州のこと、仰せ出されおることがある。大内(盛見)より大友(持直)討伐の御教書(の発給)を申し入れた。そうはいっても大友の本心をよく究明し、それによって御教書を発給するべきである。所詮、如西堂を近日中に下し遣わせ、とのことであった。次に山名刑部少輔(持熙)の事、今度の振舞、この間の事、共に以ての外である。そうはいっても山名(時熙)は宿老である。公方が自分の裁量で処分しては山名の心中を憚って思うところがある。所詮、刑部少輔の事は、元のように出仕させるも、遠国に下すのも基本は山名に任せる所存である。このことを仰せ遣わすようにということであった。そこで山口を呼びつけて申し遣わした。
次に管領(斯波義淳)のことは、甲斐(将久)に申すべきであるということの仰せがあった。次に関東の琳首座に尋ねるべき事などである。次に石橋入道が噂に乗じて去る十五日の夜にとんでもないことを仕出かした(十六日条には「去夜〈十五日〉管領内者共猥雑以外事云々。石橋ハ吾身上トテ仰天云々。稀代天魔所行歟」とあり)。言語道断であり、言うべき言葉もない、ということをお話になった。誠に以ての外である。次に大内(盛見)に援軍を送ることについて。四国の軍勢を用意せよ、と右京大夫(細川持之)に仰せられたところ、「海を渡るのはものすごく大変で、その上在京している者どもはことごとく四国のものである。そうなれば一人も在京もその結果できない、ということにもなるので、国の軍勢を派遣するべきか。次に備後と安芸(いずれも山名の領国)は九州へはなお便利であることを仰せではないだろうか、ということを申し入れた。この申した内容は御意を得られなかったようだ」ということである。
御所より退出後、右京大夫が来たので、時宜(義教の意向)を内々に申した。京兆(持之)が申すには、「備後、安芸と具体名を挙げたわけではない、ただ中国こそもっとも便が良いということであります。同じように仰せつけられるべきだということをもうしたのであります。義教様のお耳に違うように伝わって困惑しております」ということである。
申の初め(午後三時頃)より大雨が降って雷も少し鳴った。申の終わり(午後五時頃)寺に入ろうとしたところ、川原の水が充満していたので、四条橋へ廻った。酉の初め(午後五時過ぎ)に寺に着いた。
六月六日。晴。早朝に京都に出た。洪水なので四条橋へ廻った。室町殿に参ったところ、南禅寺に渡御ということである。浄土寺壇所で待った。幾ばくもなく還御なされた。早々に対面すべし(といいたいところだが)少し疲れたのでしばらく待ってほしいということであった。干飯や江瓜など、立阿弥を通じて拝領した。食べてほしい、ということである。浄土寺と相伴にあずかり賞翫した。ご配慮畏れ入りますということを申し入れた。申の初め(午後四時ごろ)対面した。条々仰せ出される詳細があった。
一、九州へ重ねて上使長老を遣わすべきである。来る九日に彼の両使を呼び寄せ、門跡(満斉)のほうで(義教の)仰せを(満斉が)仰せ含むようにということである。私がいうには、そうであれば公方奉行と大内雑掌などを同時に読んで申しきかせるのはどうでしょうか、と。このことについては尤もである、ということである。そうであれば、奉行は飯尾肥前と同大和がふさわしいということである。
一、九州へ上使下向以下の事。諸大名に相談されたところ、みんなの意見の一致は難しいだろう、と考えたので略した。ただいままた同じことを畠山と山名に言おうと思う、ということである。