対訳『椿葉記』10

其後准后も出家し給。その比、又伏見殿へ御参ありて、いと快然なりしほどに、進物十万疋まいらせられて、その御礼に御庭の田植興行せられて入申さる。田楽などいとおもしろき御遊ども侍りき。かくて応永四年の冬より御悩にて同五年正月十三日崩御なりぬ。遺勅にて崇光院と申。

十万疋-崇光院が義満の杯をとったことに感動した義満がざっくり換算すると千万円相当の金額を贈った。『荒暦』(一条経嗣の日記)@応永三年四月五日条によると「事儀(時宜、即ち室町殿の意のこと)快然、盃酌数巡之後、法皇取室町殿盃被聞食之」
田植興行-田楽。『荒暦』によると猿楽とある。
崇光院-「けだし光厳院を崇敬するの意であらう」と村田氏はする。従いたい。

その後准后(義満)も出家なさった。そのころ(三月二十八日)また伏見殿へお参りがあってたいへん楽しかったので、(翌日)進物十万疋を崇光院に進上されて、そのお礼に(四月三日)伏見殿の御庭で田植興行を行われて准后がお入りになった。田楽などたいへん面白い舞楽があった。そして応永四年の冬よりご病気になられ、同五年正月十三日に崩御した。遺勅によって崇光院という。