対訳『椿葉記』11

いつしか御領の事どもさたありて、御百个日すぐれば、やがて長講堂領・法金剛院領・熱田社領播磨国衙以下、ことごとく禁裏へめされぬ。あまりになさけなき次第、申せばさらなり。しかれば忽に御牢篭のあひだ、親王やがて御出家あり。おほよそ長講堂・法金剛院領の事は、光厳院御置文に、親王践祚あらば直に御相続あるべし。もし然ずば禁裏御管領あるべし。但末代両方御治天あらば、正統につきて伏見殿の御子孫御管領あるべしよし申をかる。しかれども親王登極の御せんどを遂られねば、力なき次第なり。

禁裏-後小松院
親王-栄仁親王
伏見殿-崇光院

そのうちに御領の事についても処分が行われ、百ヶ日が過ぎたので、やがて長講堂領・法金剛院領・熱田社領播磨国衙以下ことごとく禁裏によって収公された。あまりにも情けないことは言うまでもない。そうなったのでたちまちに困窮なさって親王はやがて出家なさった。長講堂領・法金剛院領の事は光厳院置文に、栄仁親王践祚した場合は直ちに相続せよ、もしそうでなければ禁裏が管理すること、ただし両方の子孫が交互に皇位を継承することになれば、正統は崇光院の子孫なので崇光院の子孫が管理せよ、ということを申し置かれた。しかし親王皇位を継承することはなかったのでやむを得ないのであった。

崇光院と後光厳院のどちらが皇位を継承するのか、あるいは両統迭立なのか、光厳院にはコントロールできない問題だったことがわかる。さりとて皇位継承に深入りして滅亡した鎌倉幕府の轍を踏むわけにはいかない室町幕府現状追認に徹した結果、後光厳院の子孫が継承することになった。