『満済准后日記』に見る禅秀の乱

今調べている網走の応永板碑関係、応永二十四年の年紀がある。ちょうど禅秀の乱の後である。
応永二十四年五月九日条

宇都宮へ(続群書類従本では「人」となっているが、どうみても「へ」である)御書。今日被□ー□(鎧カ)一両〈白糸〉御太刀一腰彼(続群書本では「□後」となっているが、どう考えても「彼」である)使者ニ渡遣了。

同月二十八日条

参御所。宇都宮那須状共懸□―□御吹挙事□―□有子細由被仰出。

同年十月四日条

自宇都宮御馬二疋鳥目万疋進之。若君御方へ御馬一疋太刀一振進之。

ここでの那須が資之か資重かが問題だが、いろいろ考えて現時点では資之と考える。那須資之は禅秀に付いて持氏に攻撃を受け、京都扶持衆になる。
宇都宮は持綱。禅秀の乱に持氏方、というか義持の命を受けて持氏に味方し、後に持氏に粛清される。持綱の複雑な事情を勘案すると、やはり那須は資之だろう。