国語の特性

石原千秋氏は『国語教科書の思想』(ちくま新書)の中で次のように述べる。

国語はすべての教科の基礎になるような読解力を身に付ける教科だとか、豊かな感性を育む教科だとか、そんな風に考えている人がいるとしたら、それは「誤解」である。現在の国語という教科の目的は、広い意味での道徳教育なのである。したがって国語ができるということは道徳が身に付いているということを意味し、読解力が身に付いたということは道徳的な枠組みから読む技術が身に付いたということを意味するのだ。

国語で点を取らせるには、そういうことを徹底させる必要がある。国語における「正解」とは、学校教育で「道徳的」とされることに沿った解答のことなのだ。
対策として二通りのアプローチがあるだろう。一つは学校教育で「道徳的」とされる考え方を完璧に身に付けさせるやり方だ。骨の髄まで「道徳」を身に付ければ、苦労なく「正解」にたどり着ける。その前提としての教授法は「教室には間違いがない」というものだ。
もう一つは「道徳」を徹底的に相対化し、ニュートラルな「情報」を読みとり、ニュートラルに記述する能力を育てた上で、「道徳」的な記述を意識的に加える能力を育てる方法だ。そこでは教科書も教師も相対化される。あくまでも一つの見方に過ぎないのだ。
私が国語教育で行なっているのは後者の方式だ。
「教育はソフトなイデオロギー装置」という声があるが、常に教育は政治的イデオロギーの舞台となってきた。教育とはそもそも一種の「洗脳」なのだ。教育基本法「改正」をめぐる議論が熱いのは、まさに教育がイデオロギー装置であることを象徴している。文部科学省が塾を何とか文部科学省の管轄下にしたがっているのも、完全に教育を文部科学省イデオロギー装置として機能させたいからだ。現状では塾業界は経済産業省の管轄下であり、教育基本法の掣肘を受けることはない。私が現状塾業界に希望を見出しているのは、塾業界が少なくとも文部科学省と組合のイデオロギー装置をめぐる争奪合戦から自由な存在であるからだ。
私が国語受験術を通して子どもたちに伝えたいのは「リテラシー」である。文章からニュートラルな「情報」を読みとり、ニュートラルに記述し、「情報」の意味について考え、そのことに関して意見表明できる能力を身に付けること。
たとえば評論文では「情報」と「意見表明」を分けて理解する。これは実は評論文を読解する時の受験術の基本だが、そういう考え方を徹底するのだ。そうすればたとえばあやふやな情報から行なわれる意見表明を批判的に読むことも出来るだろうし、正確な「情報」からいいかげんな意見表明が行なわれていることも指摘できる。そこまで徹底すると、自然に問題文を「批評」しながら読むことにつながる。教材は相対化されるのだ。逆に言えば教師自身も相対化される。その上で学校で必要とされる「道徳」をあくまでも合格のための方便として付加するのである。
具体的な方法は次回以降、韻文・評論文・随筆・物語文に分けて述べていきたい。