韻文

文章は大きく分けて韻文と散文に分かれる。あくまでも私流の分類なので、突っ込みはご勘弁いただきたい。私はそうやって生徒に教えておるのだ。
韻文は中学受験の世界では詩・短歌・俳句に分類される。中学受験で出てくる長歌は「貧窮問答歌」だけだ。それも馬鹿な問題集には「文中の『私』はだれですか」「答:山上憶良」などと言うネタがあったりするのだ。山上憶良の家の戸口に里長が来るのかよ。中学受験の参考書はどんなひどい教科書よりもまだ劣悪だ。
韻文とはrhythmが必要だ。rhythmの存在が韻文の韻文たる所以だ。韻文の問題を解く時にはrhythmの把握が全てである。
短歌の場合。まず五七五七七に分ける。これを徹底させている。これだけであっさり意味がとれたりするのだ。見て見よう。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
これだけではあまり意味が分からない。
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
これだけでクリアになる、ような気がする。
次に解釈だ。
秋が来たと、見てもはっきり分からないが、風の音に気付かされたよ。
これだけである。ポイントはあまり深い解釈をしないこと。
俳句。これは五七五に分けた後、季語と季節、切れ字を押さえる、という作業が加わる。
荒海や佐渡に横たふ天の川
切って見よう。
荒海や 佐渡に横たふ 天の川
季語は「天の川」。季節は秋。切れ字は「や」。「あれ?天の川は秋?」と思った方はいらっしゃらないだろうか。「天の川」は秋の季語なのだ。詳しい説明は省く。紛らわしい季語をいくつか押さえさせる。「新緑」は夏。「小春日和」は冬。という具合だ。切れ字は感動の中心。作者の松尾芭蕉は「荒海」に感動している。だから鑑賞の中心もそこになる。
荒海と佐渡島。上に天の川。という情景を思い浮かべれば終わり。
コツは、あまり詳しく解釈しないこと。韻文の問題でやりがちなミスは、「感じろ」とか言ってしまうこと。無理。感じることが出来ればいいが、感性は人によって違う。そのようなものに頼っていたら点は取れない。あくまで情報のみを抽出する。作者の感動の中心を押さえる。それを読み手が共感することを求めてはいけない。
大体歌の書き手にしても、藤原定家など、家職として和歌を詠んでいるだけなのだ。彼がすぐれた和歌を詠むのは出世のためだ。その歌に寄せる思い入れは定家の感じていた思い入れとはすでに異なる。困ったことに国語教師の多くは、自分の思い入れを人に強制する傾向があるのだが、その思い入れを相対化する必要がある。
現代詩は基本的に口語自由詩である。自由詩はrhythmを音数ではなく、表現技法で表す。したがって表現技法をきっちり押さえること。これが最重要なポイント。そこに作者の感動の中心がある。作者が感動した対象を情報として押さえる。自分も感動すれば話は早い。しかし多くの場合、「それがどうした」と思うのだが、気にしてはいけない。そもそも詩を読んで感動できるほど、普通の人間には詩情はない。詩情が根っからない人間に詩情を無理やり持たせようとするから話が難しくなるのだ。
韻文のポイントを一言で言えば、rhythmを押さえよ、ということにつきる。ポイントは詩情を追い求めないこと。これだけで生徒の詩へのアレルギーは解消できる。あとは当て物になる。選択問題は「これ絶対違うし」と思ったものを外す、とか、国語問題特有の方法論があって、これはここでは説明し切れない。私の塾に来て下さい(笑)。
次回からは散文問題。物語文の解説。