社会という科目2

六甲学院中学などで社会が入試科目から削減されていることが話題になる。立命館中学でもなくなった。「暗記科目だから」というのが表向きの理由だが、実は裏があるのではないか、という気がしている。それは社会科という科目に通有の問題が伏在しているのである。
近年の子どもは原爆の落ちた日付はしっかり記憶している。しかし原爆投下に至る近代史を全く勉強していない。塾長から聞いた話だが、最近の(自粛)県の教育は、とにかく原爆が落ちた日付だけは教えるが、そこにいたる歴史を全く教えないので、ある日突然原爆が落ちてきた、みたいな認識になっているのだそうだ。
近代史を教える、というのは難しい。たとえば「従軍慰安婦」。あった、と言おうが、なかった、と言おうが、文句は出る。「強制連行」を出題しただけでプロ市民から訴訟を起こされるご時世だ。訴訟を起こされると負担が大きいので、萎縮する。これはプロ市民のやり口だ。「南京大虐殺」などどう教えても文句が来そうだ。中間を取ると左右両方から文句が来る。普天間基地批判だけでプロ市民からまた文句が来て、しまいには分限免職というのがまかり通るご時世だ。私だって学校の教師だったら近代史を教える根性はない。
六甲学院中学の社会はプロ市民からつるし上げられそうな出題内容だった。具体的な内容は実際に見ていただきたい。おそらくはプロ市民から批判が来たのか、あるいは「やばいな」と自主規制したのかどちらかだろう。立命館の場合は、現在大幅な「改革」を行っており、かつての面影はもはやない。社会科削減も「暗記科目だから」というのではなく、学校法人立命館学園全体のイメージチェンジ作戦と連動しているのだろう。
塾は萎縮することはない。出題されるかされないか、だけだからだ。出題されないことは教えない。出題されることは教える。以上。文句を言う保護者がいれば、「そんな甘えたことを言っていては入試で通用しませんよ」と叱責すればいい。入試に出るものを教えてはいけない、という保護者ははっきりいって業務妨害に相当するので、塾生にもやめてもらうよりない。保護者もわかっているので、そんなばかなことはしない。逆に言えば塾の講師は自分の政治思想を振り回すことはできない、ということでもあるが。入試に出ない話を延々と教えるのは、クレームが来て当然なのだ。学校はそうはいかない。保護者からのクレームには一々応じないといけない。昔はそうでもなかったのだが、最近の保護者は学校を見下しているケースが多い。保護者が見下していれば、その認識は生徒にも反映する。学級崩壊が起こるのは必然なのだ。
塾で社会科を教える場合、気をつけるべきなのは、自分の政治思想に依拠した授業をやってはいけない、ということである。それは何も自分の思想をニュートラルにしなければならない、ということではない。自分の思想の偏向を自覚することが何よりも大事だ。偏向していない、という自意識からは、偏向教育しか出てこない。そのような教師にならった受験生は気の毒だ。入試に出る情報を的確に教えられなければならない。それがたとえ自分の政治思想と違っていようとも、教える必要がある。しかしそれに自分なりの意見を表明するのも当然ありだ。しかしそれは自分の個人的見解である、ということを生徒にもわからせる必要はある。特に近代史を教える場合は、その点に細心の注意を払う必要がある。
しかし近年の教育をめぐる動きは、自分の思想信条を一気に相手にもおしつけ、気に入らない見解を排除する、という動きに見える。最近は入試でも、自分の意に沿わない出題をした出題者を訴える、という動きがあるし、また政治家にも、出題者の名前を公表するように圧力をかける人がいる。特定の新聞ではそういう教師のつるし上げキャンペーンが大々的に行われる。そのような中では、もはや近現代史を扱うのは危険なのだ。他に公民分野でも憲法をめぐる動き、環境に関する問題、核軍縮をめぐる問題、デリケートな問題は社会科の中にいくらでもある。今の世の中では、もはや社会科教育は成り立たないのだ。危険を冒してまで社会科を入試科目に含める必要はない、と六甲学院中学や立命館中学が考えたとしても不思議ではない。おそらくは社会科を入試科目から外す傾向は続くだろう。