塾に行かずに中学受験

というキーワードでたどり着く方がいらっしゃるようで、塾講師の私としては「そんなことできるわけがない。ぜひわが塾へ」といいたいところだが、ここでいくら我が塾を匿名で宣伝しても効果はないし、「塾に行かないと中学受験が出来るわけがない」とあおったところでどうせ黄色い看板の塾とか、アンビシャスジャパン(←実際のアンビシャス何とか、という最近つぶれた塾とはちがいます。N学園のことを言っています。)とか、Nのマークの入塾希望者が増えるだけなので、ここで塾に行かずに中学受験をする方法をばらしてしまおう。
方法と言って大したことはない。「勉強が出来る」というのはどういうことなのか、ということを押さえればいいのだ。「勉強が出来る」「頭がいい」というのはどういうことだろうか。
「頭がいい」というのと「勉強が出来る」というのは違う、というのは確認事項だろう。中学受験を成功させるのに必要な資質は「勉強が出来る」であって、「頭がいい」という資質ではない。受験一般がそうである。世の中には「勉強が出来る」ことと「頭がいい」ということを混同している人もいるだろうが、まずそこの過ちを正すことだ。
「勉強が出来る」というのはどういうことか。それは学校が求める価値観にあっている、ということである。学校では落ちこぼれでも頭のいい人はいる。頭が悪くても成績のいい人はいる。彼我の違いは学校の求める価値観に合致しているかどうか、である。「勉強が出来る」とはどういうことか、については、詳しくは2005-03-17 - 我が九条からはじまる数日間のエントリを見ていただきたい。かなり長いので略述すると、ブルデューの指摘に従えば学校制度とは文化資本の再生産とイデオロギーの押し付けである。そして「成績のいい人」というのは学校制度が求める「ハビトゥス」を身に付けた、ということなのだ。
「勉強が出来る」という人の中で「のびのびと育てられました」という人がけっこういるだろう。あるいは東大入っているくせに「勉強らしい勉強なんてしていませんよ」という人もいる。真に受けてはいけない。主観的には「のびのびと育てられ」「勉強らしい勉強もしていない」のだろうが、一つ彼らが私みたいな落ちこぼれと違う点がある。それは授業の内容を確実に身に付ける、という能力だ。そのためには予習・復習を徹底しているに違いない。宿題忘れなど論外。宿題は当然として、それ以外に手際よく復習を済ましているに相違ない。手際よくやれば、別に時間をかけなくても授業の内容を完全に押さえることは出来るだろう。それ以外に自分で必要な参考書や問題集を適宜見つけて、適宜要領よくやる。これでおそらくかなり成績は向上するだろう。
中学入試の特異な事情としては、学校の授業を完全に理解していても、一流中学には決していけない、という点だ。それを補うのが親の力である。したがって自身が勉強嫌いであれば、塾に預けるよりないだろう。算数の特異な解き方。国語の論述のコツ。理科の計算。社会の知識。これらを過去問を検討し、必要な情報を子どもに教えるだけの努力を重ねることが出来るのであれば、子どもを塾に行かせずに中学受験ができる。「塾に行かずに中学受験」という内容の記事を拝読していると、何よりも親がいろいろご自分で調べたり、勉強したりしている様が伺える。実際には塾に子どもを行かせていても親も勉強を見ていたりするのだ。たとえばプロ野球のの某元エースは私が勤めている塾に来ていたが、元エースのサイトを見ると、子どもと勉強を楽しんでいる様子が書かれていた。子どもと勉強を楽しめたら、その子どもは伸びる。残念ながらその子どもは父親のメジャー挑戦とともにアメリカに行ってしまったので、それに伴い退塾してしまったが。集中力にムラがあるところ父親似だったかもしれない(笑)。