伏敵編

対馬に攻めてきた元軍について、次のような史料がある。

去文永十一年(太歳甲)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、(「高祖遺文録」)「SAPIO」2001年9月26日号より引用。強調筆者。

これはしばしば元軍が壱岐対馬で行った残虐行為を示す史料として出されるものである。一つ突っ込みどころがある。「総馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ」という一節だ。現代語に訳すると、

総馬尉らが逃げたので、一般人たちは、男は殺されたり生け捕りになったり、女は集められて、手に綱を通して船にぶらさげたり、生け捕りになったりした。一人も助かるものはいなかった

という内容である。文中の「総馬尉」というのは(そうまじょう)と読んでいる段階でアウトで、これは(そううまのじょう)である。つまり漢字で正しく表記すると宗右馬之允、つまり宗助国のことである。宗助国が逃げた、とあれば、これはひどい話で、宗助国は住民を放ったらかして敵前逃亡したことになる。もちろん史実は違う。宗助国はわずか80騎の軍勢で果敢に元軍と戦闘し、壮絶な戦死を遂げたのだ。
ここから、この史料には何か裏がある、と考えるのが史料批判という作業の第一歩だ。
史料批判の第一歩は、書いた人物の立場を考えなければならない。なぜこれを書いた人は宗助国を敵前逃亡した卑怯者として描いているのか。対馬における残虐性をなぜ彼は知りえたのか。もし彼がこれを眼前のものとして捕えたのであれば、宗助国の逃亡も事実として認めなければならない。しかし宗助国が逃亡したという事実はない。彼は一歩も引かずに戦死したのだ(日本側の史料が正しければ)。
そこでこの文章の全体を引用してみることで、この史料の全体像を把握しよう。

去文永十一年大歳甲戌十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、船オシヨセテ有ケルニハ、奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ、松浦党ハ数百人打レ、或ハ生取ニセラレシカハ、寄タリケル浦々ノ百姓共、壱岐対馬ノ如シ、又今度ハ如何カ有ラン、彼国ノ百千萬億ノ兵、日本国ヲ引回シテ寄テ有ナラハ、如何ニ成ヘキソ、北ノ手ハ先佐渡ノ島ニ付テ、地頭・守護ヲハ須臾ニ打殺シ、百姓等ハ北山ヘニケン程ニ、或ハ殺サレ、或ハ生取レ、或ハ山ニテ死スヘシ、抑是程ノコトハ、如何シテ起ルヘキソト推スヘシ、前ニ申ツルカ如ク、此国ノ者ハ、一人モナク三逆罪ノ者也、是ハ梵王帝釈日月四天ノ、彼蒙古国ノ大王ノ身ニ入セ給テ責給也、日蓮ハ愚ナレトモ、釈迦仏ノ御使、法華経ノ行者也ト名乗候ヲ、用サランモ不思議ナルヘシ、其失ニ国破レナン云々、
建治元年乙亥四月日
 日蓮花押
四條金吾殿御返事
『鎌倉遺文 十六』11896文書「日蓮書状」

これでからくりが概ね分かったのではないだろうか。問題となるところを抜き出してみよう。「此国ノ者ハ、一人モナク三逆罪ノ者也、是ハ梵王帝釈日月四天ノ、彼蒙古国ノ大王ノ身ニ入セ給テ責給也、」ということである。これを書いたのは日蓮。この書状が書かれたのは建治元(1275)年四月のことである。このころ日蓮は「他国侵逼難」を主張していた。だから日蓮にとって元の襲来は仏が「蒙古国ノ大王ノ身ニ入セ給テ」攻めてきたのだという。それは「此国ノ者ハ、一人モナク三逆罪ノ者」だからだ。したがって日蓮にとっては対馬で行われる行為が残虐であればあるほど、自分の主張を裏付けられるわけである。壱岐でも「奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ」とある。豊前前司とは少弐資能のこと。実際には少弐資能は博多にいたはずで、壱岐にいたわけではないが、それはどうでみいいのだ。前線の最高指揮官が逃げたことを強調できればいいのである。
もちろん戦場においてさまざまな残虐行為があった可能性を否定するものではない。秀吉の軍が朝鮮で行った蛮行は、当然対馬壱岐でも行われているのは、当然なのだ。しかし多分一番対馬にとって損害が大きかったのは、己亥東征・応永の外寇と呼ばれる1419年の事件だろう。
しかしなぜ応永の外寇ではなく、論拠のあやふやな「日蓮書状」が使われるのであろうか。
それはこの日蓮書状が広く紹介された契機となっている『伏敵編』と関係がある。
本来この史料は「日蓮書状」とされるべきであり、しかも今日手早く入手できるのは『伏敵編』ではなく、『鎌倉遺文』である。大学の図書館で検索すると、『伏敵編』は学生には利用できない状態である。なにしろ出版年が1891年だ。それに対して『鎌倉遺文』は史学科のある大学ならばどこでも開架で利用できるはずだ。にもかかわらず多くの論者が『伏敵編』を多く利用するのはなぜだろう。それは広くコピーが出回っているからである。ようするに孫引きをしやすいのである。さらには『伏敵編』が編纂された事情とも関わってくるだろう。
次には『伏敵編』が編纂された事情について見ていきたい。