『伏敵編』編纂の背景

『伏敵編』が刊行されたのは1891年。日清戦争の三年前である。そして『伏敵編』刊行と密接な関係があったのが、福岡警察署長であった湯地丈雄の主唱の元に推進された元寇記念碑建設運動である。湯地の福岡署長着任をきっかけとして開始された。その発端は、湯地が所管内を巡察した時に蒙古襲来に関する記念碑的なもののない状況を知り、これを嘆いて記念碑運動を行おうとしたのである。清の北洋艦隊が長崎に来た時の暴行事件を見聞した湯地は敵愾心発揚の必要を感じ、この運動を行うことを決心したという。
この運動の中で注目されるのは、矢田一嘯の油絵を携えて、パノラマ展示会を行ったことだ。かの有名な対馬における残虐シーンとして喧伝される絵は、矢田一嘯の元寇大油絵なのである。湯地の行った元寇関係の展覧会は100万人を動員したといわれた。
湯地の行った事業については「国家防護ノ感念ニ関シ頗ル大挙ナリ」「無形ノ記念碑ハ既ニ国民脳裏ニ建テリ」とある。
この頃日本が直面していた問題は二点。一つは日清両国の緊張の激化、もう一つは条約改正問題である。その意味で『伏敵編』編纂と元寇記念碑運動は、この二つの難問解決のために国民の動員を行おうとしたものである、と定義づけることができるだろう。
『伏敵編』編纂の意図については「六百年前我忠勇ナル将士カ難ニ殉シテ国光ヲ輝シタル挙動ヨリ、韓人カ奴役セラレテ弱国困厄ニ陥リシ形勢」を明らかにすることにあった。対アジア外交が行き詰まる中で、アジア蔑視と欧米へのコンプレックスをないまぜにした近代日本の分水嶺となった日清戦争の直前にこの書が編纂されたことの意味を我々は考える必要がある。勝海舟日清戦争に反対した。しかしその声は「脱亜論」の掛け声の中にかき消された。かの内村鑑三さえ日清戦争を文明と野蛮の戦い、としたことの意味と合わせて考えなくてはなるまい。
『伏敵編』に関しては、編纂者山田安栄が西村茂樹の対外政策論を対外認識上の自己規定としていた、と判断し、根底に各国相互間の愛国と禦海とのバランスを基調とした国際平和への希求があった、という川添昭二氏の1977年の研究があるが、西村茂樹に代表されるいわゆる啓蒙思想家に関する研究が大きく進展している今日では、一概にこれを「国際平和への希求」とは評価しきれない側面があるであろう。丸山真男福沢諭吉ぼれを自任していた。福沢にこそ民主主義の鍵がある、と見込んだからである。しかし近年勝海舟に注目する動きがあり、また従来単なる侵略主義と見なされてきた大アジア主義の再検討がなされている今日、西洋の「自由主義者」をもって民主主義を代表させるわけにもいかない。『伏敵編』は明らかに勝海舟とは系譜を異にするし、また内田良平や樽井藤吉とも系譜も志も異にする、と考えざるを得ない。内田良平韓国併合後にも朝鮮総督府の統治方法に異を唱え、また大東国男に対しても「お父上の素志を実現できなかったばかりか、同志を裏切った思い、誠に申し訳なかった」という旨の速達を送っていることからも理解できるように、むしろ大アジア主義者の方が、少なくとも通り一遍の脱亜入欧論者よりも、よりアジアとの連携を考えているのである。むしろ西村茂樹福沢諭吉のような啓蒙主義者の方がアジア問題に関してはより強硬派であり、アジア蔑視も強かったことは考慮されねばなるまい。その意味で『伏敵編』が果たした役割のみならず、その編纂意図についても字面の「国際平和への希求」という側面に留まらず、その背景における「国際関係論」にまで考察範囲を広げて行われなければならないだろう。
我々はどうしても西洋への親和性を押し出す論調に「民主主義」を見てしまいがちだ。しかし戦前の日本の動きを見る限り、単純に親西洋=進歩主義、反西洋=反動主義と色分けするわけにはいかない。もう少し複眼的な視野で、当該期の国際関係論を検討する必要がある。