足利義持の外交交渉2

対馬を攻撃し、対馬併合の姿勢を示した朝鮮。それに対し、抗議ではなく、ただの挨拶の使者を派遣した足利義持。義持使者の無涯亮倪と平方吉久と世宗は面会した。その場で何が話されたか、不明である。しかしその後朝鮮は回礼使として宋希蓂を帰国する無涯亮倪らに同行させた。
宋希蓂らが出発する直前に対馬からの使者があった。そこには対馬の人民を慶尚道の巨済島に移し、対馬宗貞盛は朝鮮の臣下になる、という講和条件が示された。これを受けて朝鮮は対馬慶尚道編入する旨、決定した。
しかし宋希蓂が対馬に渡ると話は違っていた。先ほどの対馬の使者という「時応界都」なるものの言は貞盛の関知するところではない、という。おそらくは「時応界都」は反宗氏派の勢力と考えられる。
宋希蓂の対応は素早い。「渠いま義を慕い自ら賊するを求めたり 是れ朝鮮の強いて籍図するにあらず」と回答した。つまり「朝鮮側は対馬を積極的に領土とする意図はない」と言ったのである。太宗と世宗の路線対立を見るに、明らかに宋希蓂は太宗ではなく世宗の意向を代弁していることがうかがえる。
京都に到着した宋希蓂に対し、義持側から「江南の兵船二千、朝鮮の兵三百隻、本国に向かいて来る」という少弐満貞の報告を聴かされた宋希蓂は驚いて、対馬を攻撃したのは朝鮮のみであること、日本攻撃の意図はないことを力説する。これも世宗の立場に沿ったものであった。
他に年号をめぐる軋轢もあったが、宋希蓂はそこでは原則論を固持して譲らなかった。
宋希蓂は日本行を総括して「今予、一介の書生にして行兵の翌年疑危の際に当たり、三寸の舌を持して不測の険を踏み、倭王(義持)の難弁の惑いを解き、二殿(少弐満貞)の報復の計を沮みて、還りて上(世宗)に聞す」と総括している。宗貞盛と少弐満貞、そして足利義持の不信を解き、日朝間の復交を成し遂げた宋希蓂も優秀な外交官といえる*1が、日本側の巧みさにも注目したい。
当時朝鮮国内では対日姿勢に二通りあった。強硬派の太宗と協調派の世宗である。太宗は世宗の父であるし、上王として実権を握っていたの。もし義持が強硬な姿勢で使者を派遣していれば、協調派であった世宗すらも強硬派に走らせる危険があった。そうなった場合、対馬を失うことも予想できたであろう。しかし義持は冷静に対処し、朝鮮国内の世論を刺激することは避け、ひたすら低姿勢に徹して朝鮮側の世論分裂にうまく乗じることができた。世宗をして義持と共同歩調を取らせることに成功したのである。太宗は孤立し、日朝関係は世宗−義持のラインで修復できた。その意味で足利義持はデリケートな政権運営に耐えられる資質を有していた、と桜井英治氏は評価するが、その資質は今回の外交交渉にも遺憾なく表れている。
義持の死後、義持政治を否定しようとした足利義教がしばしば持ち出したのが「外聞」である。分かりやすく言えば、メンツである。もし義教がこの問題を担当していればどうなったか、想像もつかない。「外聞」を振りかざし、親日派の世宗すら反日に追いやり、隣国との緊張関係を国内にも転用して極度の権力集中を目指したかもしれない。安達泰盛が採用した方策である。一方今回の義持の手法はおそらくかつての文永年間に亀山天皇が目指した手法ではなかったか。亀山天皇は高麗国王に親書を送ろうとし、高麗と連携して元との関係樹立も模索しようとした。
文永の対外緊張は果てしない有事体制の継続と、その継続のための「徳政=改革」を通じた抑圧を社会にもたらした。その圧力は鎌倉幕府自身の倒壊を以て終結した。有事体制の社会的圧力はその主体である鎌倉幕府倒壊でしか解除できなかったのである。一方応永の対外緊張は義持の巧みな外交交渉でほとんど損害を日本にもたらすことはなかった。それどころか隣国との関係修復を通じて義持自身は大きな果実を手にしたのである。室町幕府がもっとも安定した時期を義持はもたらしたのである。

*1:村井章介『老松堂日本行録』解説。