『伏敵編』

図書館で閲覧。貴重書ということで手続きが大変。そもそも平日の昼間しか見られない。しかもコピー禁止。古文書扱う時と同様の扱いが求められる。
腕時計とかは外しましょう。筆記具はエンピツのみ。ペン類はご法度。何しろ貴重書なのだ。
開けてみる。いきなり「公爵西園寺公望公寄贈書」という印が捺されている。つまりこの書は西園寺公望の所有物だったのだ。確かに博物館に展示してもいいくらいのものだ。
さらに気になったのが、巻頭に広橋賢光の印が捺されていた。一つ一つの本に編集主監であった広橋賢光の印を押したことになる。あまり多部数出版されたものではなかったのだろう。そして華族であった広橋は華族に献呈したものと思われる。西園寺の手元にあった書も、西園寺が求めた、というよりは広橋から献呈されたものだったのだろう。
ということは、少部数の発刊で、しかも編集主監の知り合いに献呈されている、という事実を鑑みるに、国民に広く読まれた、というものではないことがうかがえる。かなり限定された層にしか普及しなかったのだ。確かに今見ても、見方に困る。まず綱目が立てられ、史料があり、最後に「按」という編者の考察が付せられている。『大日本史料』の体裁に倣った形態なのだ。編纂事業を行った山田安栄は重野安繹と関係があったので、当然史料集の作り方は同じような形態になったのだろう。これを読み込むのには『大日本史料』の読み方にある程度通じている必要がある。
むしろ多くの人々に「元寇イデオロギーを広めるのに役立ったのは矢田一嘯の絵画であろう。現に「郷土史家」を名乗る人は、「対馬における高麗の残虐行為」を立証する史料として矢田一嘯の絵画を挙げている。「郷土史家」を名乗るのであれば、最低限矢田一嘯が近代の人であること、したがって彼の書いた絵画を論拠に鎌倉時代の事象を論じることは無意味であることは押さえて欲しいものだが、これはつまり「郷土史家」が『伏敵編』を使うことができない、という事情が関係あるだろう。しかし『伏敵編』は「郷土史家」では利用は難しいかもしれない。大学所蔵の史料を利用するには、何らかの研究機関に属しているか、研究機関に属している研究者の紹介が必要なことが多い。『伏敵編』がそう多くつくられたものでないとすれば、大学などの研究機関に属していない人が『伏敵編』を利用するのはかなり無理がある、ということになる。しかし「郷土史家」を標榜するのであれば、少なくとも『鎌倉遺文』位は使えるようになりたい。
もう一つ。現在ネットで流通している『伏敵編』所載の「高祖遺文録」には誤字がある。現在ネットで流通している『伏敵編』は、『サピオ』で使われたものがネットに転載されたものだ。誤字の流通状況を見ればそれは一目瞭然だ。ただその誤字がどの段階で出現したものかわからないが、少なくとも『伏敵編』は正しい字である。『伏敵編』から『サピオ』に転載される時に間違ったのか、『サピオ』からネットに転載される時に間違ったのか、それは『サピオ』の原文を見ていないので、わからない。とにかく『伏敵編』所載の「高祖遺文録」を使ってものごとを論じる際には気をつけたい。孫引きがバレバレだ。