ある日突然ファシズムはやってくる3

大学院に進学した頃、キャレルデスク問題というのが大学院協議会と大学当局の間の懸案事項であった。文学研究科の研究室は伝統的に専攻ごとに設置され、机も院生一人一人に保証される、というものだったのだ。しかし大学院の規模拡大を狙う大学は大学院の規模拡大の障害となる文学研究科の研究室に目をつけた。机も研究室のスペースも足りない。しかし大学院の定員を倍にしたい。こう考えた大学側は研究室の移転の時に、大学院の研究室の大幅な「改革」を提案してきた。
従来専攻ごとに分かれていた研究室を、前期課程(修士課程)と後期課程(博士課程)に分け、後期課程の院生には机を保証するが、前期課程の研究室には院生ごとの机ではなく、図書館にあるような仕切り付きの机「キャレルデスク」を設置し、図書館のようにする、というものである。キャレルデスクが院生に与えるメッセージとは「大学では研究するな」。これにつきる。私物の研究用の文献を研究室に置けない、というのは、研究そのものの否定である。一々大学に持ってくるのは重たい。しかも自分の下宿がそこそこ整っていれば、大学には来ないで自宅で研究すればいいが、特に留学生は経済状態が苦しく、満足に研究のできる環境にないことも多い。研究室のキャレルデスク化は「研究室」ではなく、「控室」化しようというものであった。
もちろん大学側にも言い分はある。全ての専攻を一つの大部屋に収容することについては、専攻の枠に閉じこもらない、開かれた学問という大義名分がある。しかし文学部に所属する学問諸分野の特性を考えれば、それが無謀な試みであることは理解できるはずだ。
もう一つは後輩の門戸を閉ざすのか、という論難だ。しかし出口の整備も行わずにやみくもに院生を増やすのが正しいのかどうか。文学研究科を出ても就職先は限られている。しかも修士課程を大幅に増加して、博士課程は今まで通りであれば、修士課程を出ただけで就職先のないオーバーマスターが大量生産されるだけだ。大学側にとっては学費を納める院生が増えるのはいいことだろうが。
私が大学院に入った当初の文学研究科長は実は院生研究室の「改革」に反対の立場だったのだ。しかし大学の理事会の一員としては、その立場を貫くわけには行かず、かなり苦慮しているように見受けられた。次の研究科長はその「改革」を力強くなしとげた。結局院生協議会は押し切られた。院生側にも危機感は欠如していた。「やり手」の研究科長のもと、研究室「改革」は実行された。私が大学院博士課程を単位取得退学した年に研究室は移転し、大部屋化された。私は慣例で一年間研究生として在籍し、その研究室に机も与えられたが、結局ほとんど使うことはなかった。大部屋ではざわついて集中できなかったのだ。そのころ大学の近辺に下宿を構えたこともあり、研究室にいる必然性もなくなった。パソコンを使うので、大部屋化され、セキュリティの低下した研究室にパソコンを置いておく勇気もなかった。
修士課程は悲惨であったようだ。自分の机というものがなくなったので、めっきり集まらなくなった、という。大学院生の自治能力は大幅に低下した。気兼ねなく議論を戦わせる場がなくなり、議論が集約されなくなったのだ。これが大学側の狙いではなかったか、と邪推したくもなる。
研究室「改革」を成し遂げた文学研究科長(文学部長)はその手腕を認められたか、多くの文学部教授会の反発を制して総長へと駆け上がった。現在大学で推進されているネオリベ改革の旗手として現在も活躍中だ。思えばあの研究室「改革」は大学「改革」の一里塚だったのだ。