北海道大学と金成マツノート

私が前のエントリで提案した、北大で金成マツノート翻訳事業を継続せよ、という提案、実はかなり微妙な問題をはらんではいる。これは別の所でも書かれていたことであるが、少数者の搾取という問題と関わる。アイヌ研究を含む「民族学」「言語学」という分野が、しばしばアイヌを研究客体としてしか見てこなかった、という現実をふまえるならば、実際は大学という場で金成マツノートを研究するということに危惧を覚えるのは当然なのだ。だからこそおそらく大学ではなく、自治体で文化庁の補助を受けて細々と行われてきたのであろう。そしてその細々とした事業すら打ち切られようとしている。日本に度量があれば、たかだか数百万の金に目くじらを立てないはずなのだが、今の日本はそれだけの度量すらないようだ。実学にしか関心のない、文化程度の低い国になる、これがこの国の選択なのだから、そもそも文学部すら存立が危ぶまれる。
このような現状では、もはや大学に頼らない、というのは物理的に難しいと考えるのだ。当然アカデミズムに頼らずにやっていくのが理想だ。アカデミズムの手に渡ると、今度こそ金成マツノートへのアクセスが制限される危険性も出てくる。私が仄聞するだけでも、アイヌ研究をめぐる大学のセクショナリズムはかなり深刻なものがある。
しかし現在は大学そのものが曲がり角に差しかかっているのだ。大学にも実用性が求められ、研究機関としてではなく、むしろ「社会に役立つ」ことを求められるご時世、金成マツノートのような「迂遠な事業」には注がれる視線は厳しいものがあるだろう。独立行政法人になった北海道大学にどれだけ体力があるか、というのは問題だが、多くの私立大学に比べればまだ体力はあるのではないだろうか。これは北海道の大学でやらなければ意味がない。それも学費の安い独立行政法人大学でやるのがベストである。
金成マツノートの翻訳事業は単に金成マツのノートを翻訳するだけではない。アイヌ文化を総合的に研究し、その研究成果をアイヌに還元しなければならない。北海道から遠く離れたところで行うのも悪くはないが、アイヌの人々こそが実際はアイヌ研究の主体となるべきなのだ。そのためにはやはり北海道の大学、それも独立行政法人大学、それも規模の大きい総合大学で行われるべきだと、私は考えたのである。前にも言及したが、それにふさわしいのは、過去の経緯を勘案しても、やはり金成マツの甥の知里真志保が在籍した北大がふさわしいと考えたのである。知里真志保は自己の研究の後継者を育成することはできなかった。志半ばで斃れた知里真志保の遺志を継げるのは北大しかない。