『新羅之記録』

松前藩の祖、武田信広若狭国守護武田信栄の子として生まれたが、伯父の信賢との関係から蝦夷地に渡り、蠣崎季繁の客人として滞在していた。おりしもアイヌと和人の交渉のもつれから、コシャマインが立ち上がり、道南十二の館の内、上ノ国と茂別を除く十の館が陥落し、蝦夷地の和人は風前のともしびであった。武田信広七里ヶ浜コシャマインと戦い、強弓でコシャマインを射落とした。結果、和人はアイヌに勝利を収め、信広は安東水軍の将、安東政季の娘で蠣崎季繁の養女と結婚し、蠣崎氏を継承した。その後蠣崎氏は計略を以てアイヌを圧倒し、一五五〇年に安東舜季の仲介でチコモタイン・ハシタインと和睦し、道南に確固たる勢力を保持する。その後豊臣秀吉徳川家康から蝦夷地の支配権を認められ、道南の大名として現在に至る。
これが『新羅之記録』が描き出す松前氏の歴史である。蠣崎氏がアイヌを制圧する段階で使われた方法が、基本的にだまし討ちであり、一端和睦する、と見せかけて奇襲をしかけ、皆殺しにする、という手口が常に使われる。
新羅之記録』に依拠する限り、松前藩の歴史はアイヌに対するだまし討ちで成立してきたのであり、和人のアイヌに対する陰惨な侵略の歴史にほかならない。
しかし少し待って欲しい。『新羅之記録』は松前藩アイヌに対する侵略と虐殺の歴史を告発するための書物だったのか。否である。『新羅之記録』は一六四三年に松前景広によって編纂された松前藩自身の歴史書である。松前景広はアイヌに対する自己の先祖の非道な行為を告発するために書いたのではない。
新羅之記録』が編纂された一六四三年という年代を考えると、藩主松前公広の末期である。松前公広と言えば、イエズス会の宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスに対して「松前は日本ではない」と発言したことで知られる人物である。しかし徳川日本の体制が確立するとともに、松前藩も転換を余儀なくされる。一六三〇年代にはキリシタン弾圧に舵を切り、蝦夷地に逃亡してきたキリシタンを探し出して処刑した。それまでアイヌと日本の両属性を誇ってきた松前氏も「日本」であることを強く宣言する必要が生じてきたのだ。アンジェリスや同じくイエズス会の宣教師ディオゴ・カルワーリュは松前氏のことを「マツマイドノは日本に服属していますが、イェゾの王でもあります」と報告している。ちなみに多くの翻訳では「松前殿は日本人ですが、蝦夷の王でもあります」と訳しているが、原文を見る限り誤訳である。アンジェリスは「日本人」と「日本」をはっきり分けて記述している。そして該当の場所では「日本」と表記している。
このような背景のもとで編纂された『新羅之記録』は当然アイヌとの戦争の歴史を、そして松前藩アイヌを制圧してきたことを誇張する必要が生じてきたのだ。実際の松前藩の歴史はかなり違うものであったことが今日明らかになっている。『新羅之記録』を丸ごと採用するのは危険だ。