アイヌ勘定

鮭を商う時に「はじめ、1・・・10、おわり」と言って二匹ちょろまかす。落語の時蕎麦みたいなこの商い方法を「アイヌ勘定」といい、和人(アイヌ以外の「日本人」のこと)の非道さを見事に言い表している。これがひどくなると、和人からの交易の品はふるぼけた漆器や粗悪な刀などを高価に売りさばき、中には竹光を「抜いたら罰が当たる」と言って売りつけたひどい和人商人もいたという。このような極悪非道な和人との交易で原始共産制社会に生きていた純朴なアイヌは滅亡の淵に立たされた。
などという言説を時々目にする。これほどアイヌをバカにした言説はない。このような「純朴なアイヌ」像の解体が必要である。
我が身に引きつければわかりやすい話なのだが、ブランド物、あれも一種の搾取だ。私は阪神タイガースのグッズをかなり高価で買う。単なるクリアファイルであれば一枚十円で手に入る。それを百円以上で買うのだ。タイガースのマークが入っただけで。これを「搾取だ」とか、「いんちきだ」とか言う人はいないだろう。「目を覚ましなさい。あなたはだまされている」と言ったところで大きなお世話である。普通に数百円で売られている魚(ジュリィ)のうち、特定の産地(パルナイーバ川)の魚だけが一万円以上で売られていることに対し、「「本物」とか「混じり」とか甘い響きに騙されて買っていくお客」という意見もあるが、これも「魚の価値は人それぞれ違って、その値段の価値が無いと思えば買わなければ良いし、その値段の価値があると思えば買ったら良いだけのこと」という意見が全くあてはまる。「偉い」人は、一般人はだまされやすい人々で、自分らが啓蒙してやらないと、と思っているようである。
結論から言うと、実際に十七世紀中ごろに米価格が四倍に高騰したことがあった。従来鮭百匹に対し米一俵(二斗入)だったのが、米一俵(八升入)となったのだ。そして本州以南では米一俵は四斗入りなのである。これだけ見れば、米価格は不当に高い。しかし移入品である米が高価なのは当然だろう。逆に米が本州並に安ければ、運送費などの費用がどこに転嫁されているのか、それこそが問われなければならないはずだ。さらに飢饉などの要因によって米価格は大きく変動する。米価格の高騰で困っているのはアイヌだけではない。本州以南でも困っているのである。アイヌからのラッコ皮、蝦夷錦、ガラス玉も江戸では高価で取引された。アイヌが一方的に収奪されていたわけではない。「がらくたのようなガラス玉」に和人たちは高い金を出していたのだ。
それではアイヌは全くの自由意思で高い米を買っていたのだろうか。もちろんそうではない。実際にアイヌにとって不利益な交易は強制されていた。しかしそれは「はじめ、一つ・・・十、おわり」という単純なものではない。もっと複雑なものなのだ。
それを理解するためには、城下交易制から商場知行制という概念を理解しなければならない。
城下交易制とは、アイヌ松前に来て和人と交易する制度である。カール・ポランニーが提唱する異民族交易制度のうち、沈黙交易から発展した交易港交易である。中立な権力が交易港を管理し、異民族同士の交易を管理するという交易制度だが、松前氏自体がアイヌと和人の双方の系譜を引く家系だったのだ。
しかし江戸時代になると、松前氏はアイヌとの関係を見直すようになる。自らの祖を武田氏に求め、アイヌとの戦いの歴史を紡ぎあげる。アイヌとの苦しい戦いを計略をもって乗り切る、という歴史である。今日、松前氏の全身である蠣崎氏がアイヌをだまし討ちにした、という歴史像は、他ならぬ松前氏自身が紡ぎ出した歴史書新羅之記録』に依拠しているのである。『新羅之記録』を完全に信じること自体が松前氏の「謀略」に乗せられているのである。松前氏の謀略にだまされている「純朴な人々」はアイヌではない。『新羅之記録』に乗せられて「純朴なアイヌ」像を描き出す人々である。
江戸時代、まず徳川家康黒印状の定めに従って、和人が自由にアイヌと交易することが許されなくなった。この傾向はいわゆる「鎖国」と言われる「日本型海禁」によって強まる。それまではアイヌは、より有利な条件を求めて和人と交渉していた。もし決裂しても、松前だけではなかった。秋田にも弘前にもアイヌの交易相手はいた。しかし「鎖国」によって秋田と弘前アイヌとの交易を禁じられた。ちなみにアイヌは当時「日本」ではないから、当然徳川家康黒印状の効力は及ばない。これは徳川家康黒印状にも、その原形となった豊臣秀吉朱印状にも明記されている。しかし少なくともアイヌは交易相手を大きく減らした。交易相手の減少は、アイヌにとって、それまでの市場価格での交易ではなく、統制価格での交易を強いられることになる。つまり相手の言い値での交易を余儀なくされるのである。
さらにアイヌにとって痛手となったのは商場知行制の展開である。松前藩藩士の俸禄として、土地ではなく、アイヌとの交易権を与えた。藩士は「商場」「場所」というアイヌとの交易拠点を与えられ、そこで交易を行うことになったのだ。アイヌの選択の幅はさらに狭まる。
アイヌにとって一番大きな痛手は、松前藩の財政悪化に伴い、松前藩が商場の交易権を債務の担保として商人に与えた、いわゆる場所請負制の展開にあるだろう。商人がアイヌを交易対象として見ている間は、それでもアイヌの生活を破綻させることはない。商売相手の破綻は、商業そのものの破綻を意味するからである。さらには松前藩には「夷次第」の原則があった。アイヌの内部事情には一切干渉しない、という原則である。松前藩アイヌとの交渉も全てアイヌ語で行われる。「夷次第」の原則の中でアイヌも「自分稼」という形での、自立性を保っていたのである。
しかし十八世紀に入ると、元禄バブルの崩壊の余波で、松前藩は財政危機に陥る。松前道広自身の奢侈な生活、さらに家老の蠣崎広重による藩政の壟断と特定商人との癒着が進行し、ついに松前藩は、商場の多くを、江戸に本拠を置く大資本に管理させることになったのである。本州の大資本は蝦夷地そのものの「開発」に向かう。たびたびの火災からの復興のための大量の木材の需要は、国内では木材伐採の規制が厳しいため、蝦夷地でまかなわれることになる。国内の農業の発展、特に商品作物の栽培に必須の肥料も蝦夷地の鯡〆粕がもっとも適しているために、蝦夷地が主要な供給元となる。「開発」の現場ではアイヌは必要ない。アイヌは大資本のもとでの賃労働に従事せざるを得なくなる。松前藩の「夷次第」の原則によって日本語を話す必要のなかったアイヌは当然不利な立場に置かれる。彼らの多くは下層労働者として、過酷な労働と安価な賃金によって搾取された。さらに深刻な問題は、「開発」が終わると、商人はその「場所」から撤退する。「開発」の終わった「場所」は環境破壊の結果、何も生み出さない不毛の土地として残される。その「場所」をそれでも生活の場として贈らざるを得ないアイヌは、当然人口を大きく減らす。
江戸時代にアイヌが大きく人口を減らしたのは、和人によるアイヌの虐殺があったから、ではない。もっと陰惨な事態が進行していたのだ。この図式はしかも今の我々にも無関係ではない。エビの養殖でマングローブ林を破壊された現地の人々は、下層労働者として低廉な賃金と過酷な労働でエビ養殖に従事し、日本にエビを輸出する。やがてエビの養殖地はヘドロとメタンガスの池となって放棄され、エビ資本は他の場所に移動する。しかしそこを生活の場とせざるを得ない人々は、ヘドロとメタンガスの池という不毛の土地を前にして、どうすることもできないのである。
アイヌの歴史を通じて見える問題点は、過去のものではない。現実の我々にも突きつけられている問題なのだ。悪意のある一部の特殊な人々によって抑圧は行われるのではない。「フツーに」生活している我々も、知らず知らずの間に抑圧に関わっているかもしれない。しかもこの問題の厄介な点は、解決策が簡単には見つからない、という点にある。エビ養殖の問題を知ったから、と言って、エビを買わない、ということが果たして現地の人々にプラスになるのか、とか。我々にできることは、せいぜい「知ること」「考えること」だけなのだ。しかし「知ること」「考えること」から、全ては始まるのも事実である。「思考停止」に陥ることだけは避けたい。