ツキノエ
クナシリ脇乙名のツキノエは毀誉褒貶の激しい人物である。クナシリ・メナシの戦いにおいて、アイヌを説得し、松前藩との戦闘を回避させた人物としてしばしば憎悪の対象となってきた。武田泰淳『森と湖の祭り』の中にもこういうせりふがあるらしい。「ツキノエって今でも人気ないのね」
他にもツキノエに関する負の評価は枚挙にいとまが無い。しかしクナシリ・メナシの戦いを一切の先入観なくして検証すれば、ツキノエが「民族の裏切り者」などではないこともまた明らかである。
ツキノエは一七二〇年に生まれた。一七五〇年代ごろからクリル諸島でロシアとの交易を始めていたようだ。日本とロシアの間の中継交易を行っていたのである。ロシアとの交易でトラブルが起こり、ロシアと戦火を交えたこともあったらしい。ロシアとの戦争にも勝利した英雄であったが、彼の運命は一七七〇年代より狂い始める。一七七四年、飛騨屋がクナシリ場所の経営を請け負うことになった。ツキノエは足掛け九年抵抗したのだが、一七八二年についに飛騨屋と妥協する。飛騨屋による場所設置を認めないと、ツキノエの確保していた交易ルートが寸断されるからである。日本側の交易ルートが遮断されれば、ロシアと日本の中継交易を行っていたツキノエは、もはや勢力を維持できない。しかし飛騨屋の経営方針は、従来の場所請負商人とはかなり異なっていた。前述したように飛騨屋はアイヌを交易相手とは考えなかった。飛騨屋にとって必要なのは、蝦夷地の資源そのものであり、アイヌは必要なかったのだ。従来和人の交渉相手であったアイヌは、飛騨屋のもとでは、下層労働者となり、アイヌの生活は飛騨屋に依存するようになっていた。
一七八九年、クナシリ島では惣乙名サンキチが死亡し、政情は不安定であった。そのようなさなか、ツキノエはエトロフ島にラッコの皮の交易のためにクナシリ島を留守にしていた。ツキノエの長子セツハヤフ、サンキチの弟マメキリらを中心に和人に対する武装蜂起が起こされ、ツキノエと同行していた甥のイコトイは急きょクナシリ島に帰り、セツハヤフらの説得に当たった。松前藩の部隊が到着した時にはツキノエらはすでに武装蜂起を押さえており、あとは松前藩との和睦交渉がツキノエらの課題であった。
当時の日本やアイヌの法理には「等分の理」が貫徹していた。「等分の理」は前近代の日本を貫徹する法理であり、「喧嘩両成敗」や「折中の理」などが相当する。今回の場合七一人の和人が殺されているのであるから、武装蜂起に参加した人の中から七一名の命を差し出すのが当時の日本やアイヌの法理に照らして応分だったのだ。しかしツキノエは粘り強く交渉した。結果三七名の処刑で済んだのである。三七名は確かに多く感じるが、当時の慣行に照らせばむしろアイヌは自分の主張を押し通した、と評価し得るのである。これを騒ぎ立てるのは、端的に言って前近代の日本の法理に無知なるが故である。
しかしツキノエは必ずしも自分の成果、あるいは松前藩の対応に満足はしていなかったであろう。彼が結局松前に行かなかったのは、それを象徴している。彼自身自分の長子のセツハヤフをこの戦いで失っている。彼の苦悩も深かったはずであり、彼を「裏切り者」呼ばわりするのは、「ちょっと待った」という気がする。
戦いの後クナシリの惣乙名の地位に就いた彼は一七九六年に末子のイコリカヤニに惣乙名の地位を譲り、意向の動静は不明である。