イコトイ
イコトイを見ていると、アイヌに対して我々が抱いていた先入観が見事なまでに破壊される。
イコトイの母は『夷酋列像』唯一の女性チキリアシカイである。別名オッケニとも呼ばれる彼女は、松浦武四郎の著作にも「ツキノイ婆」として登場する女傑である。チキリアシカイはツキノエの妹で、アッケシの惣乙名カモイボンデンに嫁ぎ、イコトイを産む。したがってイコトイは一七六〇年生まれとツキノエよりも四〇年も若年にも関わらず、アッケシの惣乙名であった。当時のアイヌ社会にも階級社会はでき上がっており、惣乙名はおそらく世襲制だったのだろう。その反対にウタレという使用人もおり、我々がアイヌ社会に抱く「原始的」という像は完全に虚像であることがわかる。特にアッケシはかつてオランダのカストリカム号が訪れた場所でもあり、カストリカム号を迎えたアイヌの首長をノイアサックという。カストリカム号の記録によればノイアサックは強大な勢力を誇っていたようで、アッケシは名門の家系だったのだろうか。イコトイの妻はエトロフ惣乙名のマウテカアイノの娘である。エトロフ、クナシリ、アッケシは強固な血縁関係で結ばれていたようだ。特にクナシリとエトロフの惣乙名や脇乙名の娘がアッケシに嫁いでいることを考えると、アッケシが盟主的な存在であった、とも考えられる。しかしこれには異論もある。
イコトイもツキノエと同様にロシアと日本との中継貿易を行っていた。さらに幕府との関係を強めようと考えていたようで、最上徳内をエトロフ島に案内したのもイコトイである。
イコトイのネームバリューはクナシリ・メナシの戦いにおける和人の助命にも現れている。アイヌに捕えられた和人のうち伝七と吉兵衛の二人はイコトイと親しいことを持って難を逃れている。武装蜂起したアイヌもイコトイを敵に回す事態は避けたかったのだろう。急を聞いてツキノエとともに戻ってきたイコトイは弓射部隊を組織し、松前藩の新井田孫三郎と協力して武装蜂起の鎮圧に乗り出す。
彼は後に近藤重蔵とも深い関係と持つため、動静がかなりはっきりしている。近藤重蔵によると、イコトイはウタレを虐待し、さらには部下のクランベを殺害した罪で追われ、一七九五年にエトロフ島に逃げ込む。そこでも暴虐の限りを尽くし、クナシリ惣乙名の地位を襲名したツキノエ末子イコリカヤニと激しく対立する。しかし最終的に一八〇〇年、イコリカヤニの斡旋で近藤重蔵やアッケシのアイヌと和睦し、アッケシに戻る。その後海難事故で死んだ、という報が入り、重蔵を驚愕させる。重蔵はかつてイコトイを厳しく非難していたが、ここではイコトイを悼む懇切丁寧な言葉を残している。結局事故には遭ったものの、イコトイ自身は無事であることが分かり、重蔵は安心している、という史料が残されている。イコトイと何かにつけ関係の深かった重蔵が蝦夷地を離れたために、イコトイの動静は不明となる。