学校の意味

学校の教育力をあげる。いいことである。しかし今の状態でどれだけ効果があるだろうか。
私は塾講師の合間に大学講師もやっている。どちらも非常勤、つまりバイトなので、兼業禁止規定はない。そもそも大学講師での収入は年間60万である。これは兼業せよ、と言われている。ちなみに九州の某大学での肩書きは「兼任講師」であった。肩書きからして兼業だ。
それはともかく、私が教えている大学の答案を見る限り、学校教育の現場は機能しているのか、首をかしげたくなることがある。繰り返すが、大学である。それも一応「一流私大」と呼ばれている大学なのだが、中々すばらしい文章力を見せてくれる。これは結局トレーニングの問題なのだろう。ブログを拝読していて、あんなにひどい文章にはお目にかかったことがない。ブログを書く、ということは、それだけで文章力、思考力のトレーニングになることを実感する。
もう一つは知識の問題。一応「史学入門」なのだから、それなりに歴史に関する知識はある、と思っていたが、かなり欠落していることがわかった。どれだけ欠落しているか、と言えば、フランシスコ・ザビエルと鉄砲伝来の人物と勘違いする位の欠落ぶりである。小学校・中学校と学ぶでしょう。日本史を高校で履修していなかったとしても、小中学校で学んでいるはずだ。そして私の講義ではわざわざ鉄砲伝来に一コマ(九〇分)、ザビエルに一コマ、かなり丁寧に扱った。多分出席していないから、大学での講義内容は知る由もない、とは言え、小中学校のレベルをクリアしていないのはすごい。しかし単位は通した。これを落とすと、半分の受講生は単位をとれなくなる。
これだけ歴史に関する基礎知識が欠落しているところに、変な歴史像を流し込まれると「知りませんでした、そんな歴史があったなんて」ところっとだまされる。
歴史の授業に問題がないとは言わない。受験を考える限りつまらないものになるし。私の高校の時の日本史の先生は、もちろん受験に合わせたつまらない授業であった。イデオロギー的なことは一切言わない。ひたすら事実を淡々と教えていた。退屈だった。大学院に入って学会の委員をやっていた時に、その先生のお名前を拝見した。ばりばりの左翼だった。後に新聞にもその研究成果と談話が発表されていた。やはりばりばりの左翼だった。それならそれらしい授業をやれば、まだ面白かったのに、と思ったが、多分それはオールド左翼としての矜恃だったのだろう。自分の授業をイデオロギー注入に使ってはいけない、と。
しかしイデオロギーに無関係、というのは難しい。その先生は完璧だったが、例えば私の一連のアイヌ史に関するエントリ。これでも大学では「自虐的」という非難を浴びる。難しいね。