一代主

秋篠宮家に男子誕生ということで、現在皇位継承順序が皇太子→秋篠宮文仁親王秋篠宮悠仁親王となった。これは二つのことを意味している。一つは傍系継承ということである。今上天皇の嫡子である徳仁親王からその直系に皇位が継承されず、傍系である秋篠宮家に皇位が継承されることになる。もう一つは一代主の存在である。一代主とは、自分の子孫が皇位を継承する可能性がなくなった天皇のことである。一代主は鎌倉時代末期に多く現れた。その実例を検討したい。
1 花園院
諱は富仁。伏見院の皇子で後伏見院の弟に当たる。このころ皇位持明院統大覚寺統のいわゆる両統迭立でめまぐるしく移動していた。そもそものはじまりは治天後嵯峨院皇位を長男である後深草院から亀山院に移し、さらに亀山院の嫡子世仁親王立太子させたことから、最終的に亀山系統と後深草系統で皇位をやりとりすることで決着がつく。皇位は後宇多(大覚寺統)→伏見(持明院統)→後伏見(持明院統)→後二条(大覚寺統)と移動する。後二条が在位7年で病没し、後伏見院には皇子がいなかった。そこで後伏見院の弟である富仁親王を即位させることにしたのである。後伏見院に皇子が生まれれば、皇位後伏見院の系統に継承されることになるので、花園院の子孫には皇位継承の可能性がない一代主となる。在位十年、大覚寺統の尊治親王皇位を譲る。退位後は後伏見院の嫡子量仁親王の教育に力を注ぐ。
2 後醍醐天皇
諱は尊治。後宇多院の皇子で後二条院の弟に当たる。後二条病没時、後継者の邦良親王はまだ9歳で、幼少の皇太子を立てることに不安があったために花園院のあとに一旦中継ぎの天皇を立て、その後に邦良親王立太子させることになった。後醍醐はこれに不満を抱き、皇位継承に影響力を持つ鎌倉幕府の打倒を目指したが失敗(正中の変)、邦良親王は後醍醐の退位運動を開始する。しかし鎌倉幕府は後醍醐を不問に付し、失意の邦良親王が27歳で急死すると、皇位継承問題は紛糾し、邦良皇子の康仁親王、後醍醐皇子の尊良親王、後伏見皇子の量仁親王がそれぞれ候補者として争うことになるが、後醍醐天皇の再度の倒幕計画の失敗後に量仁親王が即位し(光厳院)、康仁親王が皇太子となる。鎌倉幕府倒壊後光厳院康仁親王とも廃される。
3 崇光院
諱は益仁、後に興仁。光厳院の嫡子。観応の擾乱とそれに続く正平の一統によって廃位され、賀名生に幽閉される。帰京後はすでに弟の彌仁が即位(後光厳院)しており、崇光院は嫡子栄仁親王立太子を望むが、後光厳皇子の緒仁親王が即位(後円融院)し、崇光院の系統に皇位が継承される可能性は閉ざされた。
4 称光院
諱は躬仁、後に実仁。後小松院の嫡子。後小松院の譲位を受けて即位するが、病弱で後継者誕生が不安視されていたために、後小松は称光の弟の小川宮を後継者にと考えていたようで、事実上の一代主となる。小川宮の急死後は崇光院の系統の伏見宮家の彦仁王の即位を考え、称光院と軋轢をおこす。称光院にとっては父が自分を軽んじているように思えたのであろう。結局称光院の死後に彦仁王が後小松の猶子として即位した(後花園院)。
自分の子孫に皇位が継承されない一代主となるといろいろと軋轢が起こりやすいことが分かる。基本的に一代主というのは「先例不快」び分類されるだろう。万世一系というイデオロギーからも傍系への皇位の移動は喜ばれないが、それに加えて一代主の出現も皇室内部にとっては、あまり歓迎されざることに違いない。徳仁親王の一代主を避けるためには女系天皇容認しかない、というのがおそらく女系天皇容認に舵を切った宮内庁の考え(宮内庁の動き自体が今上天皇の内意を受けている可能性は否定できない)だったのかもしれないが、当面悠仁親王誕生で皇室典範改正問題はストップしている。皇室典範改正問題は一代主による混乱を避けたい皇室の事情もからんでいたのかもしれない。つまり皇太子徳仁親王の一代主を避けようとすれば皇室典範改正による女系天皇容認は避けられず、皇室に後継男子がいないことがそれの追い風になっていたのだが、悠仁親王誕生によって皇室の後継男子の問題はとりあえず解消され、皇室典範改正による女系天皇容認問題は当面回避されることとなった。
皇室の事情としては、さまざまな皇室行事に関して、皇太子と秋篠宮家とではかなり関わり方に差があるといわれ、皇室の意向としては皇太子家に皇位が継承されるのが望ましい、という考えもある、と言われており、それだけに天皇・皇后も悩んでいる、と一部報道にあった(確か週刊新潮)。現在女系天皇容認というのが、皇太子家の事情に関わって出されていることは間違いがなく、それだけに男系維持派から皇太子家に対して厳しいバッシングが浴びせられるのであろう。逆に言えば、自称「保守」の間に読むに堪えない皇太子バッシングが根強く残るのは、皇太子家の事情が皇室典範における女系天皇容認と関係が深いことをうかがわせる。