学会の感想

少し前に私も関係している学会の大会があった。ただ私は行っていない。土日は大事な仕事だ。受験生を担当していると土日はつぶれる。これは基本だ。3・4年生は土日はない。5年生は土曜日の午後に二時間。日曜日はなし。6年生は土日がっつり。これは我が塾の方針。3年生は勉強の楽しさを知る。4年生から少し本格的に、とはいっても基本は勉強の楽しさを知ってもらう。5年生は受験に向けての基礎作業。6年生の一年間だけはしっかり勉強をする。一年間くらいは必死に勉強して欲しい、というのがわが塾の基本スタンス。これはどうでもいい話で、私は6年の担当なので、土日は休みがない。
学会の大会はほとんど土日にあるので、この十年近く学会の大会には参加していない。だから参加した人に聞いた話だ。
学会報告で、官司請負制という概念を批判した報告があったそうな。報告者は私と大学は違えど一応同期の研究者だ。片や大会報告、片や塾で授業に追われる。差がついたものだ、と自虐的になるが、その感想を同じ古代史の先輩から聞いた。
私は中世史の研究者ということになっているので、古代史は基本的に何も知らないので、官司請負制の批判がある、ということすら知らなかったのだが、先輩研究者によると、その批判のしかたに疑問があったそうな。
官司請負制という概念を批判する時に、その反証をいくら出しても意味がない、というのである。それを批判することで、どういう新しい全体像が現れるのか、という見通しが出されないと、意味がない、という。
確かに言われれば分からないわけではない。官司請負制は一つの分析概念であり、当時官司請負制という言葉が存在したわけではない。従軍慰安婦とか、幕府とかと同じである。しかし官司請負制という概念によって特定の歴史像を構築したわけである。当然反証はいくらでも存在することは分かり切っている。問題は抽象化することでどういう歴史像が描き出されるか、なのだ。個別具体的な反証を出しても分析概念そのものを批判することにはならない。
討論が成り立たないのである。「○○という反証があります」と言われても、「ああ、そうですか」としか言い様がない。しかしその反証が実際に存在するからといって、その歴史像全体が否定されるわけではないのだ。自分が出した細かい反証に反批判が出ないからといって、自分の反証が認められたことにはならない。むしろ「ああ、そうですか。それで何が言いたいの?」と困惑することにすらなりかねない。学会ではどうも議論が盛り上がらない、ということになったようだが、これがもし議論に不慣れな人びとだと、「私の出した反証が有効だった」と錯覚しかねない。反証を出して、それに対する反批判が出ない時には、実際は当初の概念を出した側は困惑している、というケースも多いのだ。