架空鉄道の沿革を考える

今回構想する架空鉄道を名古屋急行電鉄に決定する。名古屋急行電鉄は前述した通り、京阪グループとして計画された鉄道で、大阪天神橋と名古屋を二時間半で結ぶことを目的として計画された。しかし世界恐慌の影響で挫折、という鉄道だが、架空鉄道をいくつか拝見すると、名古屋急行をモチーフとした架空鉄道がいくつか存在する。基本的には新京阪系列で運行されているようだ。しかしここではあえて阪急系列で物語を組むことにする。理由は現在手持ちの模型を活かすためだ。現在手持ちの車両を活かす、という縛りは、一応レイアウトのための架空鉄道であるためにやむを得ない。そのため他の名古屋急行構想に比べるとしょぼくもなる。
手持ちの車両で活かしたいのは、鉄コレの15m級フリー電車103と2001、阪急920と阪急2800、そして近鉄の10100系となる。10100系はまだ手元に無いので曲線通過性能がわからないが、モデモの江ノ電は一応C140曲線を通過する、という情報もあるので期待しよう。ちなみにマイクロエースの10000系は全く無理。それに7両編成はオーバースペック。編成長50mの10100系は小型レイアウトにもマッチする(気がする)。これを全て含めた物語を作る、という、この時点ではちゃめちゃな物語だ。他の架空鉄道版名古屋急行と比べるとその現実感は大きく損なわれる。
まずは沿革をば。もちろん架空で、実在の企業名が出てくるが、無関係。こういう時はどうも「この物語は架空です。現地への問い合わせなどはやめてください」と書く例が多い。実在の企業を巻き込んでかなり大胆な改変をするケースもある。かつてNゲージマガジンでは名古屋鉄道の親会社という設定のレイアウトが存在した。逆に名古屋鉄道の子会社とする手もあったろうが、ここは話を大きくしよう、という方針だと思われる。近鉄と阪急を解体して名古屋急行を作るケースもある。近鉄と阪急は存在しなくなるわけだ。これならば名古屋急行と近鉄の競争を顧慮しないで済むのである意味現実感はあるかも知れない。私の場合はこじんまりと、現実の企業の子会社的存在でいこう。
そこで物語の作成だ。

頓挫した名古屋急行の計画は戦後、意外な企業の手によって再生が試みられる。かつて名古屋急行計画に対抗して伊勢電を買収し、いち早く名古屋−大阪間直通運転を開始した近鉄であった。当時近鉄は元伊勢電の路線であった名古屋線が1067mm軌間で、参宮急行の路線であった大阪線は1435mm軌間と、異なる軌間が存在した。結果名古屋と大阪の間では接続駅の伊勢中川駅で乗り換えが生じていたのである。これが国鉄の準急と対抗する際のネックになっていた。さらに近鉄としては大阪の北に乗り入れができるのも魅力であった。当時の近鉄の大阪側のターミナル上本町は神戸方面からのアクセスが悪く、大阪のキタへの乗り入れは悲願ともいえた。そのために近鉄が目をつけたのが名古屋急行だったのである。西向日で阪急と接続させれば大阪への直通が可能になる。
近鉄が目を付けたもう一つの理由が琵琶湖鉄道の存在である。琵琶湖鉄道汽船が京阪に買収され、解体された時に、琵琶湖鉄道汽船からスピンオフした会社である。八日市篤志家西別仁助翁の出資によって、琵琶湖汽船が当初目指した草津延長、さらには八日市と京阪地域へのショートカットを目指して建設された琵琶湖鉄道は、インターアーバン的な鉄道を目指して、市街地を走る軌道と、郊外を走る高規格鉄道路線を合わせ持つ鉄道に成長していた。草津市内や大津市内を併用軌道で走り、郊外に出るや高規格路線を高速で走るこの鉄道の存在は、八日市を通って大阪を目指した近鉄にとって好都合だった。一方の琵琶湖鉄道も永源寺−大津間の鉄道だけでは行き詰まりを感じていたこともある。中京圏と東近江の経済圏を直結させれば、琵琶湖地域の発展も期待できる。
近鉄から提携を求められた阪急側は、滋賀県への直通は京阪との競争を激化させるだけという思いもあり、当初乗り気ではなかった。さらに西向日から名古屋急行の車両が入線してくることによるダイヤの煩雑化も歓迎されざる材料であった。近鉄の熱心な説得で阪急は近鉄、琵琶湖鉄道と共同で名古屋急行を設立し、路線の敷設と車両の提供を行なうこととした。
路線は西向日から分岐し、伏見、山科、大津を経由する新線を作り、石山寺で琵琶湖鉄道に接続する。琵琶湖鉄道は石山寺永源寺間の高規格化を完成させる。近鉄永源寺−名古屋間を敷設し、車両を提供する、ということになった。特に難所は永源寺−員弁間の石榑トンネル揖斐川長良川木曽川を渡る架橋工事である。鉄橋部分は近鉄名古屋線の鉄橋部分を3線構造とすることで対処することになったが、石榑トンネル開業までは近鉄名古屋線の支線として運営されることとなった。もう一つの問題点は逢坂山である。当初の予定では旧東海道本線を使う予定であったが、名神高速道路建設が始まっており、一部ルートを変更して音羽山を抜けて石山に出るというルートを採用することとなった。
阪急側の工事は比較的順調に進み、1950年には西向日永源寺間が直通した。阪急が用意したのは当時京都線の新鋭であった710系ではなく、神戸線用の920系と酷似した車両であった。形式も920系が採用された。その背景には琵琶湖鉄道が17m級しか入線できなかったことが挙げられる。当時920系も増備が行われており、それと関連させて増備するのが得策と判断された。ただ920系と全く同じ、というわけではなく、クロスシートを採用するなど、近郊運用が考慮されている。ローカル輸送は琵琶湖鉄道の15m級電車が担当することになっており、阪急が担当するのは都市間輸送だった。従ってクロスシートの急行仕様車が要請されていたのである。
しかし近鉄の方で大事件が起きた。伊勢湾台風による名古屋線の被災である。復旧工事と合わせて改軌を行なうことになり、名古屋急行の必要性が薄れたのである。石榑トンネルが開業したのはその翌年の1959年のことであった。
琵琶湖鉄道及び阪急電鉄が心配したのは近鉄の熱意の低下であった。近鉄の誘いに応じて大金を投じて名古屋急行を作ったのに、肝心の近鉄の熱意が冷めてはどうしようもない。近鉄は石榑−名古屋間の輸送全般と名古屋急行の特急用車両を担当することになっていた。その時に使い古しの特急車両を押し付けられるのではないか、という心配が両者の間にあった。しかしその心配は杞憂であった。17m級しか入線できない、という悪条件をクリアするために近鉄は一両17m弱の3両連接車10100系を増備して応えた。名阪ノンストップ特急は二系統で走り始め、名古屋急行の最盛期を演出する。しかし1964年の新幹線開業は当然名古屋急行にも大きな影響を及ぼすこととなった。従来共通運用だった名古屋急行と近鉄名阪甲特急の運用を切り離し、10100系のA編成とB編成を正式に名古屋急行に移籍させることにした。移籍対象になったのは梅田よりに流線型先頭車が連結されたA編成3編成と名古屋寄りに流線型先頭車が連結されたB編成3編成で、両端とも貫通型のC編成は移籍しなかった。920系と2800系はもともと阪急の運用から切り離された名古屋急行仕様の車両であったために、名古屋急行の車両の陣容はここに固まることになった。名古屋−桑名間と梅田−西向日間はそれぞれ近鉄名古屋線阪急京都線に乗り入れる関係上、乗り入れ車両は名阪直通特急に限定されることになった。それ以外の車両は桑名−西向日間の名古屋急行内に運用が限定された。桑名−石榑間のローカル輸送は引き続き近鉄が行い、西向日−石山寺間のローカル輸送は名古屋急行電鉄の急行の末端部分を各駅に停車させて行なうことになった。従って西向日−石山は急行だけが運転されている。永源寺−石榑間は名古屋−大阪または桑名−西向日間の特急が行なう。特急は全席指定の10100系仕様の特急と、全席自由で特別料金不要の2800系特急があり、二時間交互ヘッドで運転されている。この間の各駅は料金不要の特急だけが通行することとなる。
新幹線開業後は名阪ノンストップ特急はなく、滋賀県内と大阪、名古屋を結ぶ使命が主流となっている。観光シーズンには名古屋から嵐山に直通する10100系使用の特急も運転される。

とまあこんな具合で空想を広げる。私なりのこだわりを示すと、西向日発であること、石榑トンネルを通ること、の二点である。多くは京都または大阪に起点を求めている。実際には河原町からさらに延長して山科・大津と進んだ方が客は来そうだ。しかしそれだと開通も1964年を超えてしまう。新幹線が出来てから開通しても運命は厳しいだろう。しかしそれだけに却って滋賀県内の輸送に特化した有用な鉄道になったかも知れない。
石榑トンネルだが、実際の名古屋急行が石榑トンネルを通っていたのでそうしたのだが、多くの名古屋急行では湯の山温泉を通ることになっている。この方が温泉への観光客を導けるだけいいかも。特に1964年以降、名阪速達輸送をあきらめた場合、地域間輸送に特化する時には滋賀県や京都から湯の山温泉へのルートを採った方が得策かも。しかし多くの名古屋急行計画は名古屋と大阪の速達輸送を考えているようだ。それならば石榑トンネルの方が適していると思う。私の名古屋急行計画は地域間輸送に重きを置いているので、湯の山温泉ルートも考えて見よう。菰野町から日野町に武平峠を通るルートだ。ただ山が急峻なのと、市街地の広がりを見るとあまり効率的でもなさそう。石榑トンネルならば5kmほどだが、武平トンネルだと10kmは超えそうだ。石榑ルートに決定。