「無用なていねいさ」

飛騨屋久兵衛に関する議論についてタカマサ氏より批評されたhttp://tactac.blog.drecom.jp/archive/1498。タカマサ氏の高い見識は私としても学ぶところは多く、以前より折りに触れて拝読してきた。今回のエントリも非常に学ぶべきところの多い議論であり、私の年齢に関する錯誤を別にすれば、非常に有用な議論であった。ちなみに私は40になったばかりである。
ただ私としては少しひっかかることがある。それは「無用なていねいさ」「ていねいな目配りは不要」という氏の拙論に対する論評である。氏は岐阜県における北方領土の返還運動に関して「のちの北海道開拓の経緯や北方領土問題の「地ならし」系「歴史的経緯」に動員=悪用される」と拙論における飛騨屋再検討を批判される。私も悪用される可能性は感じている。しかしそれを「無用」として無視することが、「地ならし」系「歴史的経緯」に悪用されることを防ぐとは思えない。むしろそれを「無用」と捨象することが、「地ならし」系「歴史的経緯」を延命させていると考える。
私が飛騨屋にこだわる理由であるが、アイヌモシリの環境破壊に「悪者」を設定することが生産的な議論か、という疑問があるのだ。飛騨屋が、松前藩が、江戸幕府が、と犯人探しをするのは簡単である。しかしそれでは一部の「悪者」に責任を負わせるにとどまらないか、ということだ。結城庄司が高倉新一郎批判として投げ掛けた次の批判を私は受け止めたいと思うのだ。

もうすでに存在しない松前藩に“アイヌ抹殺”の責任をおおいかぶせて口をつぐんでいる。これではアイヌ民族に対する歴史的政治上の責任の所在はどこにあるのか、日本帝国主義の犯した罪悪に対する責任を松前藩におおいかぶせただけでは「免罪符」にならないのである。

飛騨屋批判は高倉新一郎から変わらないシェーマなのだ。さらに言えば「蝦夷地一件」所収の松前藩文書から変わらない議論を積み重ねることにどれだけの「学問的意味」があるだろうか。
飛騨屋の収奪がいわゆる大規模資本による環境破壊を伴う開発であり、それがアイヌ社会を完全に破壊したものであることは論を待たない。飛騨屋とそれ以前の場所請負制商人とを分けるのは実にその点なのだ。そして飛騨屋のあとを受け継いだ阿部屋伝兵衛もその流れに乗っているし、西別川における釧路場所と根室場所のシロザケの漁法をめぐる論争や、千歳川における論争もその延長線上に位置づけられるべきものである。18世紀末の日本に何が起こったのか、ということを巨視的に知るためには、飛騨屋久兵衛の下呂における活動も押さえなければ、当時の世界システムの中で日本が置かれていた位置づけを検討することは到底不可能である。せいぜい日本が近代化に成功したのは江戸時代のエコロジカルな産業活動があったからだ、という一面的な歴史把握にとどまるのである。
19世紀に日本が西欧列強に伍していけたのには、江戸時代における環境配慮形の開発があった、それは事実だ。飛騨屋が下呂で行なった「開発」はその一例だ。その一方でアイヌ琉球の犠牲なくして語れないだろう。琉球については詳しくここで論ずる能力はないが、アイヌ社会にもたらされた日本の「経済発展」に伴う環境破壊はもっと注目されていい。環境保全型の経済発展を謳う時に、その矛盾を他地域に押し付け、口をぬぐう図式は現在多く見られる*1ところであるが、徳川日本とアイヌの関係もその一例である。
実際に飛騨屋の場所でアイヌ支配を行なっていた「番人」が多くは大畑の住民で、彼ら自身も飢饉で食い詰めて飛騨屋に雇われた人々であることも記憶されていい。彼らは彼らなりに必死に生きていたのだ。現在クナシリメナシの慰霊祭では殺された71人の和人の番人たちの慰霊も合わせて行われるよし。彼らを非難するのはたやすい。しかし彼らを単純に「暴虐な和人」という図式で片づけることで抜け落ちるものがある。抜け落ちたすき間に「日本人は遠い異郷の地で頑張っていたのである」というプロパガンダは容易に入り込む。私の考えではむしろ飛騨屋サイドの事情を「無用なていねいさ」として切り捨てることの方が、悪質なプロパガンダに力を与えることになるのではないかと考える。
一人一人の人間は与えられた運命を懸命に生きてきた。しかしそれが収奪にも破壊にもつながるのである。それは現在の私たちにも言えることである。一人一人の事情にていねいに寄り添うこと、その上で巨視的な視野で位置づけること、これこそが現在必要とされている歴史叙述である、と考える。ていねいな目配りは必要であるし、不要なていねいさなどないと考える。
「ていねいな目配りは不要」という図式主義は戦後の「革新」歴史学に通有のものであった。かつては天皇制の歴史も「延命させるだけだ」として研究することすらタブー視されてきた。公家社会の研究も同様の理由でばっさり切られた。それが何をもたらしたか、史学史に敏感な人ならばすぐにわかるであろう。「悪用」されるから「無用」なのではない。「悪用」され得るからこそきちんと向き合う必要があるのだ。

もう一つの論点。
氏が次のように言っている以下の議論についてである。

むしろ、琉球列島やシナ大陸に自生しないコンブが、なにゆえ蝦夷地から恒常的に輸送されていたのかという海運史を、東北アジア交流史、東シナ海交流史へと連結させる交易史・文化交流史へとひらく視座を提供すること、天皇制を基盤とした律令国家体制の「拡大史」を自明視するヤマト・イデオロギーを徹底的に相対化する視座をしめすこと、ウチナーンチュ/ヤマトゥンチュ意識にみられるような民族意識の成立経緯の解明、安保体制はもちろん、「二・二八事件」や「朝鮮半島分断」、北方少数民族の解体、等々が、ヤマト民族の構築がもたらした帝国の拡大・崩壊の副産物であることの巨視的把握などが、肝要だろう。

これは1980年代以降、塚本学氏や村井章介氏の「地域」論を嚆矢とし、その後n地域論や海域アジア論など、むしろ現在の学会の主流として流通している見方であり、それをブログで述べるゆとりはない、ということを付言しておきたい。もちろん講義ではまず取り上げる事柄である。そして現在かかる認識は中学入試レベルでも取り上げられるべき問題であり、社会科の中学受験指導を行なう際にも当然押さえる問題である。むしろ氏が取り上げられている問題は1980年代以前の歴史教育の問題であり、あるいはそこから進歩していない怠慢な教員の指導レベルである。公立の学校教育がどうなっているのかは知らないが、少なくとも一部の私立中学の受験問題ではアイヌ琉球問題を捨象していては対応できない現実がある。もっともこういうことでもっとも先進的であった六甲中学は社会をとりやめたが。神戸女学院や甲南女子でもそうだし、最近ではテキストでも「単一の日本史像」を相対化するための視座を提供しようと言う動きがある。
その意味では「「必要悪」につきあうことを稼業とする、「二線級の史学徒」のはずの予備校講師の入試対策が、なかなかするどい視座を受講生に提供しているといった実態は、あまりに皮肉な構図ではないか?」という指摘は当を得ている。
30年ほど前の歴史学は確かに「日本」という枠組みを無批判に受容していたことはまぎれもない事実で、それは左右問わないものであった。「革新的」とされる研究者が平然とアイヌの歴史を無視してきたのは20年前でも普通に見られる光景であった。現在でもそういう研究者はいるだろう。しかしここではそういう研究者の存在は、この問題を取り上げる場合にはそれこそ捨象できるだろう。
現在参考にすべき研究成果は存在する。この事実を確認しておきたい。

最後に。
これは少し説明を加える必要があるだろう。アンケートで私が問題にしたいのは「難しい」だけではない。「難しいからレベルを下げろ」である。大学生にも当然得手不得手はある。私は数学が小学生以下のレベルしかないので、大学ではとらなかったのであるが、他にも苦手は結構多く、結局「可」が多数だった。「優」は専門科目しかなかった。大学にはさまざまなレベルの学生がいる。歴史をほとんど知らないまま大学に来る学生もいるだろう。私が教えている塾でも第一次世界大戦第二次世界大戦の区別がつかないまま一流中学にいった生徒がいる。灘や甲陽など3科目受験校が増えているので、社会は無知でも結構エリートコースにいけるのだ。歴史が得意な学生もいる。大学の一般教養でどのレベルの講義をすべきか、という問題である。少なくとも高校の補習レベルのことをするわけには行かないだろう。学生の批判精神を涵養するような刺激的な歴史像を提示するのは最低限の責務であると私は考えている。それを「レベルが高すぎる、下げろ」と言われても困るのだ。逆にアイヌ史は学校ではやらないわけだから、アイヌ史の基本の基本から教えている。城下交易体制から商場知行制、場所請負制、などの基本概念を一から教えているのだ。あるいは民族学的な陥穽とか、ステロタイプと表象と表徴についてとか。これを分かりやすいかどうかはわからないが、身近な例を引きながらていねいに教えている。当然分かりやすい、とか面白い、とか笑えたという意見もある。その上で「レベルを下げろ」という意見に鼻白んだのである。
もっと鼻白んだのが「日本史と言う科目名と講義の中身が乖離している」という意見だ。それこそ「大和民族」の歴史だけが「日本の歴史」と考えているようで、上田万年の国語創設の話や上田の弟子の金田一京助アイヌ語学の達成と限界、知里幸恵知里真志保などを講義してきた意味を全く理解していない、どころか、理解しようと言う意思すら見いだせない回答にいささかびっくりさせられたのである。
一概に学生が無能だと言っているわけではない。自分の無知に向き合わされた時に、どう対応するかの違いを論じているのだ。
以上タカマサ氏の学識に甘える形で蕪雑な言葉を連ねてきた。タカマサ氏のご海容を請う次第である。

*1:ノルウェーサーモンの養殖の汚染がスコットランドに押し付けられているとか。