歴史教育と歴史学研究の成果

タカマサ氏より懇切なご批評をいただいた。主張点はいちいち納得できるものばかりである。タカマサ氏のブログで紹介されていた上村英明氏は私自身修士時代に先輩研究者から紹介され、著書を拝読して大きく影響を受けたこともあり、私の主張も実はタカマサ氏に近いのは道理である。タカマサ氏が史学研究者に投げつけられるいらだちは私自身も共有している。
いやらしい話であるが、私は村井章介氏が東京大学文学部の教授になられた時に少し期待した。その期待は裏切られることはなかった。中世史研究においては「日本」という枠組みを相対化する試みは少しずつだが前進している、と思う。と同時に「自分たち(とその先祖たち)が抑圧者であった(いまもある)といった原罪意識と、徹底的な自己批判精神が欠如しているだろう、史料オタクたち」といういささか激越にも見える非難があてはまる研究者も多いのも事実である。自己の研究が現状の社会にどう働きかけるべきかを見失った研究が目に付くのは事実である。この点タカマサ氏と私は問題意識を共有しているつもりである。
またタカマサ氏が私におっしゃっているのは、学生のレベルを嘆くよりも、教師が努力せねばならない、という厳しい批判であり、この批判については真摯に受け止めたい。この批判は当然予想されたものであり、確かに学生のレベル低下を嘆くのは、責任転嫁であり、学生に対して失礼である、と自己批判したい。
その上で二つばかりタカマサ氏のご好意に甘えて疑問点を述べさせていただきたい。
タカマサ氏の「「上田万年の国語創設の話や上田の弟子の金田一京助アイヌ語学の達成と限界、知里幸恵知里真志保などを講義」するという、おそろしくゼイタクな内容を6か月に濃縮して受講生に徹底することは、指導のプロである「Wallerstein」氏ご自身が成功していらっしゃらないようである。」に関しては少し待った、といいたい。何を以て成功していない、というのか私には皆目わからないからである。というのは私が今回出したのはアンケートにおける回答のうち自由回答の3通を指摘しただけであり、テストの内容については何も述べていないからだ、ほぼ全ての学生がめちゃくちゃな回答を書いていたことを嘆いているのであれば、それは「成功していない」ということになるだろう。そうではない。私自身も講義の眼目として考えている「琉球列島やシナ大陸に自生しないコンブが、なにゆえ蝦夷地から恒常的に輸送されていたのかという海運史を、東北アジア交流史、東シナ海交流史へと連結させる交易史・文化交流史へとひらく視座を提供すること、天皇制を基盤とした律令国家体制の「拡大史」を自明視するヤマト・イデオロギーを徹底的に相対化する視座をしめすこと、ウチナーンチュ/ヤマトゥンチュ意識にみられるような民族意識の成立経緯の解明、安保体制はもちろん、「二・二八事件」や「朝鮮半島分断」、北方少数民族の解体、等々が、ヤマト民族の構築がもたらした帝国の拡大・崩壊の副産物であることの巨視的把握などが、肝要だろう。」という内容については半分以上の答案が合格点を書いていたのである。
以下は数日前の引用である。
「「日本史でアイヌ史をやることは科目名と乖離していないか」というクレームである。漠然と「難しすぎる」というクレームも多い。そこが問題だと思うのだ。「わからない」のは仕方がない。むしろ「無知」だからこそ新たな知識を吸収することもできる。しかし無知に居直って、自分の知識だけが正しい、自分にわからないのは講義のレベルが難しいからだ、だからレベルを下げろ、と臆面もなく要求できるところに問題を感じている。」
これが眼目であって、「俺の講義がわからないのはけしからん」と言っているわけではない。ただそう読まれたとすれば、そもそも私の書き方に不十分な点があったのだろうと言うしかない。
もう一つ。
「「一部の私立中学の受験問題ではアイヌ琉球問題を捨象していては対応できない現実がある」として、その結果が「アイヌ史は学校ではやらないわけだから、アイヌ史の基本の基本から教えている」という現状にあらわれている以上、氏の立論はくるしい。」というところだが、文脈の異なる二つの内容を一方的にくっつけられ、「立論はくるしい」と言われてもいささか返答に窮する。
前者は「むしろ、琉球列島やシナ大陸に自生しないコンブが、なにゆえ蝦夷地から恒常的に輸送されていたのかという海運史を、東北アジア交流史、東シナ海交流史へと連結させる交易史・文化交流史へとひらく視座を提供すること、天皇制を基盤とした律令国家体制の「拡大史」を自明視するヤマト・イデオロギーを徹底的に相対化する視座をしめすこと、ウチナーンチュ/ヤマトゥンチュ意識にみられるような民族意識の成立経緯の解明、安保体制はもちろん、「二・二八事件」や「朝鮮半島分断」、北方少数民族の解体、等々が、ヤマト民族の構築がもたらした帝国の拡大・崩壊の副産物であることの巨視的把握などが、肝要だろう。」という氏の指摘に対し、中学入試レベルでの取り組みとして、アイヌ民族の存在について周知させるような学習を行なわせるようにしている事例を紹介したのである。後者については、日本史とは異なる北海道史の時期区分を初めとした、少し詳しい話をしている。そもそも中学受験を目指す小学生と大学生とでは学ぶべき内容に差があることは当然で、「北海道における先住民としてアイヌがいた」というレベルから始めなければならない「中学受験における基礎」と日本が単一民族で構成されていないことが自明である「大学生の教職科目における基礎」とではレベルが違うのは当然だと思うのだが、それも苦しい言い訳なのだろうか。
以上、私からの素朴な疑問をタカマサ氏のお言葉に甘えて出してみた。非礼な点があればご海容願いたい。
タカマサ氏からの厳しい批判については真摯に受け止めたいと思う。大学に出す書類を考え直す機会を与えられたこと、タカマサ氏には重ねて感謝の念を表したい。