「通史としての日本史教育の政治性2」によせて

私は大学院時代宿直のバイトをしていた。そのバイト先に一人の近代史研究者がいた。まあそのバイトは基本的に研究者が集まっていたのだが。その人がバイト先を辞める時に下さったミニコミ誌が今、タカマサ氏のエントリ「http://tactac.blog.drecom.jp/archive/1587」を拝読していて思い出された。
その人は私より6学年上だったのだが、大学院修士課程を出た後、しばらく高校の非常勤講師や予備校の講師をしながら、宿直もしていた。宿直を辞める直前の時にある大学の博士課程を受験されたそうで、修士論文を書き直して、提出論文としたそうだ。そこでは叙述において、専門外の人が読んでも分かりやすいような配慮を各所に凝らしたそうである。しかし試験官の言葉は「君が新しいことを言おうとしているのはわかる。だったらなおさら文体はオーソドックスなほうがいいよ。文体がイメージを決めてしまうからね」と言われたそうだ。これに「我慢が出来なくなった」そうだ。そして彼は「学界では一定の評価を受けるが、世間一般には全く無名の論文か、世間では評判になるが、学界では全く黙殺されるか、のどちらかを選べと言われれば私は後者を選ぶ」と宣言する。
当時私は博士課程に合格したばかりで、彼の言っていることがあまりピンと来なかった。そのころ学界でいかにしてのし上がるか、ということしか頭になかったからだ。学界で評価されるためには、実証が全てである。実証が上手くできていれば評価される。実証が悪ければ黙殺される。それだけだ。私自身これまで10本の論文を出しているが、基本的に専門外の人が読んでもほとんど理解できない瑣末な実証がやはりメインである。ただ悲しいことに私はあまり実証が上手でないので、私の場合「世間では全く無名だし、学界でも全く評価されない」というレベルのものなのだが。
今になって彼の言い分が何となくわかるような気がしてきた。現時点では私は学界からも大学からもずり落ちかかっていることを何となく自覚している。自分でも本業が塾講師になりつつあるな、と思うし、知識も歴史学関係よりも国語の受験対策の方がしっかりしている。今年から社会にも復帰するので、それも加わる。完全に塾講師が客観的にも主観的にも本業となりつつある。そうなったことを自覚した時、先の二者択一が頭に浮かんだのだ。彼は予備校の講師となった。受験で一番真剣に歴史に向きあう若者に自分の歴史像をぶつけていこう、と決意し、予備校講師となったのである。考えれば私のやっていることも同じなのかも知れない、と思ってしまったのだ。私の場合小学生対象の国語なので、彼とはかなり条件が違う。私の場合「文章の読み方」を教えることが肝要だ。私の場合、文章に込められたイデオロギーを相対化するというリテラシー能力をつけさせることか。分かりやすい言葉で言えば「事実」と「意見」を読み分ける、ということの徹底である。こういう時に私がやってきた「史料批判」という方法論が役に立っているような気はする。