扇動されやすい人3

レポートを題材に扇動されやすい人、ということで、少し考えてみたのだが、当初私は私にも共通する問題として考えていたのだが、若干のご意見「汝なにをか求むる - 枕流亭ブログ」や「扇動されやすい人、について考えてみる。: 不倒城」を見て、その指摘は的を射ていると思い、考え方を少し修正した。レポートの技術論として「だまされていたけど、真実に目覚めた私」と言う自分語りをレポートの技術として使う、というのは、少なくとも私にはないし、私が受けた論文指導にもない。むしろ「自分も今だまされているかも知れない」という形での自分語りが望ましい形通りのレポートであって、自分を「先覚者」として位置づけるのは、むしろ小論文ではまずい、というのが定説である。率直な無知の表白は多いにあるべきである。少なくとも「今は事実に目覚め」という、肥大化した自己評価をさらけることは、端的に言ってまずい、という指導はされた。もう一つ、「憤りを感じる」というテンプレも、私が受けた論文指導からはあり得ない。私自身の感性としてはあり得る。そういう感情的な記述はどうしてもしてしまう。しかしそれは技術としては抑えるべきなのだ。自分の気持ちの昂ぶりをいかに抑え込むか、それに失敗した時、「憤りを感じた」などという感情的な表記がほとばしる。これは失敗であって、思い入れが過ぎたためなのだ。しかし今、そういう論述がもし行き渡っているのであれば、私の受けてきた小論文指導とは異なるし、大学で要求される文章とも根本的に違う。もしそういう文章がいい、と学生たちが考えているとすれば、これは別の意味で由々しい問題である。
自分のことを「真実に目覚めた先覚者」と思い上がるのは私自身が持つ弱点であり、時に感情が文章を狂わせるのも私自身自覚している弱点である。しかしそれを意識的に利用するのであれば、それは小論文としては根本的に間違っているし、大学で書くべき文章ではない。だからもし、「目覚めた私」「憤り」というような自己語りが受験技術として流通しているのであれば、それはまさに「使うな、そんなテク」ということに尽きる。あるいはテキストへのおもねり方を考えなくてもいいから、普通におもねって欲しい、と。そんなに高いことを要求しているわけではなく、「こういう見方もあるのかと思った」とか、「そもそも宝治合戦を知らなかったからこういうことを知った」というレベルでいいわけだ。
これが彼らが本心からそう思っているのであれば、私も理解できないではないが、それがテクであったり、その場しのぎであったりするのであれば(そして私も指摘を受けてそういう気がしてきたからこういうエントリを立てているのだが)、それこそ問題であるような気がする。そういう「扇動されやすい人」を組織的に生産しているわけであるから。「扇動されやすい人」にならないためには、常に「自分が扇動されているのではないか」という視点が必要である。それを根本から否定する「今までだまされていたが、真実に目覚めた私」という自分語りは確実に知性を劣化させる。私自身それは痛感してきた。私の周辺のサヨクの知性劣化は目を覆わんばかりだった。その「知性劣化」という批判は私にも当然あてはまる。私自身自戒せねばならない。
「だまされていたが、真実に目覚めた私」という、知性劣化を引き起こす自分語りが、組織的に生産されていとすれば、それはまさに憂えるべき状況である。
追記
しんざき氏から言及いただいた(受験テクとしての論文の書き方、のお話: 不倒城)。どうも憂慮すべき事態は実際にあるようだ。私も大手予備校で小論文講義を受けた。おそらくしんざき氏が受けた小論文指導と違うだろうと思われるのは、私が受けた小論文指導は大学の教師が行なっていた点だ。だからおそらく大学教師受けする内容で行われていたのであろう。しんざき氏が「ただこれって、「大学論文と受験論文のずれ」というだけの問題じゃなく、結構色んな場所で顕在化し得るずれの様にも思うのだな。少数派多数派という意味では、件の学生さんが書く様な文章の方が多数派なんじゃあるまいか」というのは、おそらく的を射ているし、このずれは確かに検討に値する問題でもある。
nagaichi氏の「私たちは扇動されやすいのかもしれませんが、大学のレポートごときで帰納される結論であれば、かえって信用できませんね。」という記述について(汝なにをか求むる - 枕流亭ブログ)。「信用できません」という評価に「信用してくれ」というつもりもないのだが、実は何を批判されているのかよくわからなかったりする。「私たちは扇動されやすいのかも知れませんが」というのがそもそも私にはよくわからなくて、「私たち」が誰を指しているのか、はっきりしないと、答えようがない。私は大学生のレポートの内容を、とりあえず「扇動されている」人のサンプルとして論じているのであり、そこから「私たちは扇動されやすい」という結論を出されても困る。「扇動されやすさ」という問題点については、私自身はおそらくもっているだろうし、大学の頃に私の周囲にいた「左翼学生」も「扇動されやすさ」を持っていた、という結論なのだが、「私たち」というnagaichi氏を含む集団に適用されて、それで「信用できませんね」と反論されても、困ってしまう。「信用できません」の根拠が「大学のレポートごときで帰納される結論であれば」ということであるが、これも私自身は大学のレポートから帰納した覚えは全くないので、この批判の意図するところが正直わからない。私はそのレポートの記述を、扇動されているサンプル例として出したのであり、それをもとにその背景を分析しているのであるから、それは完全に分析のための素材でしかないわけなのだが、それを「大学のレポートごときで帰納」と論難されたのでは、私の帰納法に対する理解が根本的に間違っていたのか、と悩んでしまう。従ってせっかく言及いただいたのだが、意味のある返答ができなかったことは、ご海容の程をお願いしたい。