大学関係者が好む小論文技術

私は大学教師と塾講師と、二足のわらじを履いている。どちらが本業か、と問われれば、昔は大学講師と胸を張って言えなかったが、今は塾講師と胸を張って言える、というか、大学教師は副業と化している。私の仕事先の塾はほとんど二足のわらじ組だが、どちらに軸足を置いているか、と言えば、多くは研究者に軸足を置いているようだ。私は最近塾での進学指導に軸足を置いている。
この両者を見ていて感じるのは、大学で要求される文章と、受験教育で指導される文章の間にズレがある、ということだ。しんざき氏がテクとして述べていた次の3点の内の二点目を見ていて強く感じる。

・「90分で綺麗にまとめる」ことを最優先とする。その為、学生に幾つか「書きやすい類型」みたいなものを用意させておく

・客観的な議論だけで終わらず、自分の主張を結論として明確に出す。その為、感情的な部分はふくらませて書く様にする

・問題文があった場合、その主張をくみとる。かつ、主張がくみとれたことを採点者に知らせる為、主張の内容は明確に記述する。

一点目と三点目は私も異論はない。特に三点目は大事だ。しかし二点目についてはしんざき氏も「特に二つ目、要は「主張と言っても、時間内に客観的主張をまとめるのは君らには難しいだろうから、多少感情的な論調でもとにかくおおげさに書いとけ」みたいなニュアンスだったのだな。テクニックとしての有用性に関しては賛否両論あるだろうが、そこの部分には当時も「はーー?」と思った覚えがある。」と書いていらっしゃる通り、「はーー?」というものだ。主張を結論として明確に出す。これは正しい。感情的な部分をふくらませるのは、端的に言って間違えている。論者の感情などにこちらは関心がないのだ。論理的な思考力があるかどうかを知りたいのだ。しかし大学以外では豊かな感性を持っているかどうかを問うことが多いようだ。だから「感情的な部分をふくらませて」というような指導がまかり通るのだろう。
ちなみに中学受験ではもちろん感情的な部分をふくらませるように指導する。他ならぬ中学側がそれを求めているからだ。しかしそれは自分の素直な感性ではあり得ない。中学が期待する「感情」というものがある。それを踏まえたうえで、「感情的な部分はふくらませる」必要があるのだ。だから本当に感情的になれば中学入試でもアウト。小論文の添削のバイトもやったことがある。これも同工異曲であった。だからしんざき氏が「マイナーな予備校のマイナーな講義でなかったことは確かである」というのは、私の感覚に照らしても、おそらく正しい。
しかし大学に入ってこれではいささか困る。私が受けてきた小論文教育は、当時大学の教師であった人が行っていた講義だったので、大学入試や大学入学後にも有用なものだろうと思う。そして言論を行う際にも必要な事項であると思うので、ここにまとめておきたい。
まず小論文の採点印象として次の五点を挙げる。

・類型的な答案が多く、個性的な答案が少ない。
・受験生の個人的立場を離れて、自己をつき放し、社会的に冷静に考えた答案が少ない。
・思い込みや先入観による問題文の不正確な理解が多い。
・具体例を挙げているが、不正確な知識をふりまわしている答案が目立つ。
・広い読書や討論などによって思考を進め、バランスのとれた結論にいたる、という訓練が著しく欠ける。

これらを「思考力そのものの弱さ」に起因するものとする。その具体例として「私と読書」というテーマで論じさせた時のことを記す。

演習で「私と読書」といったテーマで論じさせると、七〜八割は同一内容になる。いわく「読書は人間性を豊かにするために必要だ。」しかし、「今、自分は受験勉強に忙しくて読めない。」だから、「大学に入ったら大いに読みたい。」あるいは、「読むべきだと思うが、あまり本が好きでなくなってしまい、入学しても読めるかどうか。」これは全体が観念的なタテマエ論なのである。そして自己を深く見つめ、腹の底から考えることをしないと、これが観念的で無内容な文章であることすら気付かないわけである。ひどいのになると「今の若者は本を読まないのがけしからん。」といったケシカラニズムを平気で書く。自分がその若者の一員であるという立場を忘れてしまっているのである。

その対処法として

正義の味方になって正論を述べる前に、具体的な現実観察をすることである。その現実の対象とは、まず第一に自分自身であり、自分の周囲であることは論をまたない。また、自分の立場を忘れないこと。他人批判をしたくなったら、自分自身がその批判対象に入らないか、冷静に判定してみるべきである。

というのを挙げる。

例えば医学系希望者の諸君に「ガン」について小論文を書かせると、じつに簡単に「告知すべきだ」「告知すべきでない」の白黒論を展開する。そこにどんな問題が存在しているかも知らない無知の蛮勇である。

ここで述べられている問題はいろいろな側面で使えると私は思うのだが、いかがだろう。
あと言われたことで印象に残っているものを挙げると
・新聞の社説のような観念的なタテマエ論を書くな。
・他人を批判したからと言って、本人の正しさが証明されたことにはならない。
・自分自身を批判の対象とする覚悟を持て。自分に三倍辛く、他人に三倍甘くしてようやく同じくらい。
そして読書の必要性は常に言われる。
ただ私自身の意見であるが、ネット上の情報は読書の代替にはならない。ネット上の情報は多くは「情報」でしかなく、それを処理する「主体」は「古典」に当たらなければならない。「主体」が形成されていないのに「情報」を身に付けても、百害あって一利なし、である。