「だまされていた私」という自分語り

さらにコメント欄に「や」氏が興味深いことを述べていた。

その講義に興味がなく、そして単位が欲しいと思っている学生の、レポートに対する戦略を考えると、

・全くこれといって感じたことはないが、単位のことを考えるとその講義、テキストから自分は何かを学び取ったと教授にアピールしたい

・つまりテキストを読む前と後、ビフォーアフターの差についてなにかしら表現したい

・しかしほんとうに興味がないのでアフターを高いところに持っていけない

・となるとビフォーをかなり低い位置に設定して強めにアピール

・「目からうろこでした!」

‥というのが自分を振り返るとわりと普通なんですが。

確かに我が身に引きつければ、そう思うのも道理ではある。永一氏の昨日のコメント「件のレポートは学生の「自分語り」ですらないのではないかと疑っております。取り繕ったところで「今どきの学生に騙されないでよ」という茶化し」というのも、同じことだろう。
私が問題にしたいのは、テクとしてどういう論理を選び取るのか、という問題である。基本的に宝治合戦など関心がない、というのが健全な考えであり(笑)、それについて学説を読まされて感想を書かされても困る、というのは、きわめて常識的な反応である。そして単位のためだけに適当なことを書いてお茶を濁そうと考えるのは、至極真っ当な考えであり、私はその考え自体を俎上に載せようとは思っていない。問題はお茶を濁す時に彼らが無意識的に選び取る論理なのだ。
私ならば、学校で習ったことと、今回知った学説を比べて、「学問も進歩している」という、当然至極で、従って無意味な感想を結論に持ってくるだろう。そしてそれはおそらく一番楽な方法であると思う。事実数百枚提出されたレポートの大部分がそういう内容で、従ってこちらの記憶にも残らないものなのだ。これを「低レベルだ」と怒っているのではない。私もそういう態の低レベルなレポートを粗製乱造して大学を卒業したのだから。
ただ少なからざる人々に見られた「だまされていたけど真実に目覚めた私」という自分語りに、現在の言論状況が孕む問題点が現れていると思ったので、取り上げることにしたのである。